将棋マガジン1990年7月号、先崎学四段(当時)の第2回IBM杯順位戦昇級者激突戦「参加することに意義がある」より。
12:10 朝が弱いぼくにしては珍しく早く連盟に来た。4月は旅行つづきだったので、連盟に来ると、ホッとする。エレベータに張ってあるポスターがはがれかかっていたりして、こういうところが、非常に将棋連盟らしく、ぼくは、そんな雰囲気が好きだ。
今日は、順位戦の抽選が行われるらしく、朝からなにやら騒がしい。なんでも今年からコンピュータを使って抽選するらしく、5分くらいで表が出来るらしい。たったの5分間で1年が決まるのは味気ないが、それはそれで良いことであろう。
(中略)
小野-屋敷戦が終わって少したつと羽生が投了した。鈴木は、対局中の沈黙がうそのように、躁状態になり、「ぼくの方には、悪手がないね。あるとすれば、序盤で端歩を突いた(△1四歩)手でしょう」
と喋りまくる。
羽生も人が良いので、笑って聞いている。宴たけなわになると、鈴木節はますます好調になり、
「どうです、深く読んでいるでしょう。なかなか並のプロではここまで読めないよ」
などと言いだした。快勝してご機嫌である。それにしてもノッテル人の言うことは違う。
ところが―検討も、もうそろそろ終わりかというとき、誰かが、9図で桂を打ったら、と言った。
瞬間、羽生が「アッ!そうか」と叫んだ。
9図では▲6七桂という手があった。これに対し、角を逃げるのでは、▲7二飛打でそれまで。角筋がそれてはひどい。かといってほかに手がない。ということは羽生が勝ちだった……。
おかしい、のである。振り返るとたしかに鈴木には、悪手というべきものがない。それでいて逆転しているとは―将棋は難しい。
それと、羽生が、こんな簡単な手をのがしたのもおかしい。不調か?
思えば羽生は、四段に昇ったときから、周囲(取り巻き)に、強くなるように、スターになるように、育てられて来た。
それが、竜王になり、羽生自身が一つの権威になった今、今まで味方だった人間は敵になり、彼が、さらに強くなろうとするのを邪魔するであろう。そのとき、彼が毅然とした態度をとれるかどうかに、彼の将来がかかっていると思う。
最後に汚点はあったものの、本局は鈴木の会心譜だった。だが、これは、羽生が鈴木の力を引き出すような指し方(戦型)を選んだためであり、本番(順位戦)ならこうはなるまい。
本番は、もうすぐ始まる。1年間また血みどろの戦いが繰り広げられることだろう。
最後に、このIBM杯にふさわしい言葉を一つ。
「参加することに意義がある」
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IBM杯順位戦昇級者激突戦という、順位戦での昇級者9名によるトーナメント戦が行われていた時期があった。
そういう意味でも、「参加することに意義がある」には深い意味が込められている。
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「連盟に来ると、ホッとする。エレベータに張ってあるポスターがはがれかかっていたりして、こういうところが、非常に将棋連盟らしく、ぼくは、そんな雰囲気が好きだ」
このような気持ちは本当によくわかる。
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細かい分析はしていないので断定はできないが、「アッ!そうか」は羽生善治九段の感想戦における口ぐせの一つかもしれない。
もっと驚いた時に、「アアッー、飛車!」と言っている事例もある。これは口ぐせではないと思う。
→羽生善治四冠(当時)が「アアッー、飛車!」と驚いた村山聖七段(当時)指摘の一手
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「思えば羽生は、四段に昇ったときから、周囲(取り巻き)に、強くなるように、スターになるように、育てられて来た。それが、竜王になり、羽生自身が一つの権威になった今、今まで味方だった人間は敵になり、彼が、さらに強くなろうとするのを邪魔するであろう。そのとき、彼が毅然とした態度をとれるかどうかに、彼の将来がかかっていると思う」
これは、嫌がらせなどをして邪魔をするのではなく、今まで気を遣って遊びなどには誘わなかった人たちが、どんどん将棋以外の面白いこと(例えば、飲む・打つ・買う)を誘ってくるようになる、という意味だと解釈した。
そのような誘いをいかに毅然と断ることができるかどうか。
解釈として当たっているかもしれないし、当たっていないかもしれない。
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この羽生善治竜王-鈴木輝彦七段戦(タイトル・段位は当時)が終わった後の模様については、鈴木輝彦七段が翌月の将棋マガジンに書いている。