豊川孝弘3級と郷田真隆4級の意表の一手の応酬

近代将棋1984年6月号、片山良三さんの「駒と青春」より。

 現代は時間との戦いです。というナレーションから始まる、テレビのクイズ番組があります。

 問題自体はさほど難しくないものばかりなのですが、60秒の間に矢継ぎ早に12問も出題されるところが実はミソで、あわてふためく解答者は普段の半分の実力も出せずに敗退するという運命をたどるのです。

 持ち時間の短い奨励会の将棋では、終盤戦ともなると、これはもうほとんど例外なく”時間との戦い”も並行して行われることになります。

 後で冷静になってみると、「どうしてこんなバカな手を指しちゃったんだろう」と思えるような手が交錯するのが、この秒読み将棋の特徴。プロの卵と言えども、やることはクイズ番組の解答者とたいして変わりません。とんでもない読み抜けをやらかすなんてことは日常茶飯、時には思考回路と運動回路がかみ合わなくなって、指すつもりがない手を指が勝手に動いてやっちゃったなんて事も起きるのです。

(中略)

 もう一局、郷田真隆4級と豊川孝弘3級の一局もご覧いただきます。

 郷田君は2期連続勝率第1位を取ったイキのいい若手。級より上の力を持っていることは間違いのないところ。豊川君も、その前の期でやはり勝率第1位だった人。近況ちょっとくすぶっているようですが、力は十分あります。好取組です。

 早繰り銀から激しく攻め合って、手数はまだ進んでいませんが、1図ではもう終盤戦に突入しています。

 寄せは挟撃、とばかり一本△8六歩と突いたのは手筋。▲同歩なら△8七歩がいい味です。いい気持ちで指していた豊川君に、意表の一手が襲います。

1図以下の指し手
▲5三と△3七と▲同桂△6九金▲8八玉△7九角▲9八玉△9六歩(2図)

 間髪を入れずに▲5三とと寄った手に、郷田君の勝負勘の良さが表れています。△8七歩成なら▲同金で、取れば▲4二銀までの詰みという仕掛けです。

「まったく読んでなかった」という豊川君ですが、秒読みの中でうまく気をとり直して、△3七とから△6九金、△7九角と迫ったのはおそらく最善の手段でしょう。秒読みとは思えない、落ち着いた正確な指しぶりです。

2図以下の指し手
▲4二銀△同飛▲同と△同玉▲7九金△9七歩成▲同桂△7九金▲4九飛(3図)

 ▲9六同歩と取ると、△9七歩▲同桂△8七歩成▲同金△8九銀以下の詰み。絶体絶命かと思われましたが、▲4二銀とここで打つ手があり、▲7九金に▲4九飛と王手金取りに打ってしのぐ手がありました。まだ大変そうです。

3図以下の指し手
△4七角成▲7九飛△3七馬(4図)

 58秒まで秒を読まれて△4七角成としたのが、指した本人も読んでいなかった(!?)という絶妙手でした。

 最初は平凡に歩を打って受けるつもりだったそうですが、後の変化を読んでいるうちに「50秒」を読まれ、そのうちわけがわからなくなって角を成った、と本人は言っています。その手が勝因になろうとは……秒読みのさなかのファインプレーと言っていいでしょう。

 ▲4七同飛は△4六歩▲同飛△4五歩▲同飛△4四歩で自陣が受からず、やむなく▲7九飛と金を取る一手となりましたが、取れるはずの角に逆に△3七馬と桂を取られるハメになっては形勢に差がつきました。△4七角成には郷田君も意表を突かれたようです。

4図以下の指し手
▲6八飛△8七歩成▲同玉△8六歩▲同銀△9六銀▲7八玉△6七歩▲同飛△6四歩▲4三歩△同金▲4四歩△同金▲4五歩△8七金▲同飛△6六桂▲8八玉△8七銀成▲同玉△9六銀▲7七玉△8七飛▲6八玉△4七馬▲6七銀△8八飛成(投了図)

 △3七馬が、▲6四角の筋を消しているのが豊川君の自慢で、4図となってはもう負けられません。

 ▲6八飛に、△6七歩から△6四歩としたのは、いかにも奨励会らしいフルえた寄せ方。もっと早い手が多分あるでしょうが、安全確実にまさる手はないのです。いくら良い手を指したって、負かされたのでは笑われるだけですから。

 秒読み将棋では、読みになかった手を指された瞬間がポイントで、本局では郷田君が▲5三とと指したところがそれになります。冷静に対処した豊川君は、ペースをを乱されることなく勝ち切ったのは立派の一言です。妙手△4七角成も、気持ちの中に余裕があったからこその産物でしょう。奨励会を勝ち抜くためには、秒読みに強くなることが絶対に必要なわけがおわかりでしょう。

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豊川孝弘3級(17歳)と郷田真隆4級(13歳)の戦い。

まさに、躍動する、若さ溢れる将棋。

桜が咲く季節にピッタリな感じがする。

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「58秒まで秒を読まれて△4七角成としたのが、指した本人も読んでいなかった(!?)という絶妙手でした」

極限状態に追い込まれて指した手が絶妙手ということは、日頃の鍛錬の成果が盤上に現れたということなのだと思う。

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秒読みに強くなる方法があるものなのだろうか。

結局は将棋に強くなる方法とほとんど同じ意味になるので、難しいという結論になるのかもしれない。

 

「この頃はもう、奨励会の将棋指してて”なんで王様が二つあるんだろう”と、フッと不思議に思う時があるんですよねえ。そのぐらい異常でした」

将棋マガジン1987年2月号、「若手棋士訪問記 米長邦雄のスーパーアドバイス 浦野真彦の巻」より。

米長 あれっ、今日は妹さん来てないの。

浦野 ええ、仕事をしてましてね。残念だと言っていました。

米長 本当にそう言ってたのか?

浦野 いや、聞けばそう言うと思ったんですけど(笑)。

米長 ハッハッハ。ダメじゃないか、自分で勝手に決めちゃ。ちゃんと聞いといてくれ。こっちはそれが楽しみで、わざわざ大阪まで来てるんだから。

浦野 でもこの間「米長先生と対局だ」と言ったら、サインをもらってきてくれとか言われましたよ。

 浦野真彦四段は関西将棋会館のすぐ近く(徒歩1分)の1DKのマンションに一人住まい。家賃は5万円との事。一人住まいとは言っても、茨木にある実家での生活と半分半分だという。また、歯科衛生士をしているハタチの妹さんがなかなかの美人らしく、若手棋士数人が狙っているとかいないとか。

 訪問すると自らコーヒーを入れてくれそして一言「まさか砂糖を入れるような人はいないでしょうね」いかにも棋界最軽量(42キロ)のマッチらしい意見。

米長 茨木っていったら、全然遠くないわけだろ。関西会館からどのくらい?

浦野 45分ぐらいですね。

米長 それじゃあ俺の所と同じようなもんだ。それでここを借りてるというのは何か理由があるの。

浦野 しんどいんですよね、対局の朝、早く起きて連盟に行くのが。

米長 ウーン、しかし、それを普通のサラリーマンの方々に言ったら怒られそうだね。対局開始は10時だからね。

浦野 それと、家の方はスペースがないんですよ。僕の部屋が四畳半で、そこにベッドがおいてあったりして。

米長 なるほど。でもいいね、こういう部屋があると。じゃあ、対局の前の日と対局の日はここに泊まるわけだ。

浦野 いえ、対局の前というのは、ほとんど順位戦のときだけですね。

米長 奨励会を卒業して何年だったっけ。

浦野 10月に昇段しましたから、ちょうど3年です。

米長 今期はどうだい、順位戦は?

浦野 ええ、なんとか5連勝です。

(中略)

米長 ここに越してからはどのくらい?

浦野 ちょうど1年ですね。

米長 奨励会の時は親元にいたんだ。

浦野 いえ、15の時にアパートに。

米長 あっ、そう。それはなんで?

浦野 前の関西本部は遠かったんですよ。2時間近くかかって。それで、連盟の近くに借りて、天王寺将棋センターの手合係をやらせてもらってたんです。それから3年程たって、連盟が今の所に来 たんで、家に帰ったんですけど。ちょっと体もおかしくなりまして。

米長 結構、きつかったのかい。

浦野 でしょうね、後から考えたら。手合係が12時から10時まで。片付けやって帰ったら、もう11時ぐらい。それが月のほとんどでしたね。月に20何日。で、奨励会が2日、記録係も2日、稽古も1件あって、休みがゼロだったですね。

米長 手合係やって、アマチュアの将棋を見てても勉強になるわけはないよね。そうすると何で強くなったの?

浦野 遅番というのがありまして、夕方からというのが。そういう時は連盟に行って棋譜並べたり、将棋指したり。あと手合係というのもそんなに忙しくなかったんですね。だから、そこで棋譜を並べたりとか。とりあえず、なんか将棋にからんでた、というのはあったと思うんです。それで二段までは良かったんですけどねえ。二段になって1年くらいの時ですね、1勝11敗というのがあって。

米長 それは思いきった負け方だね。

浦野 その頃ちょうど規定が変わるという話が出た時で、それまでは2勝8敗を2回やって降段しても3勝3敗で戻れるというシステムだったんですが、今度からは本当に落とすという事になったんです。その話が出た時に僕はBに落ちて4連敗してるんですよ。あと4番負けると初段に落ちるんですよね。その時はあわてましたね。その頃ですね、詰将棋を始めたのは。詰将棋の創作ですね。

米長 詰将棋を。それはどうして?

浦野 将棋から離れたかったんでしょうね。その頃はセンターから帰ってきて、フロの最終に入って、それから、夜の12時頃から朝6時頃までラジオを聞きながら詰将棋。ラジオが終わると寝るんですよ。で、昼に起きてセンターに行って。そういう生活を2ヶ月半位続けました。その頃は全然勝てませんでしたね。奨励会で対局するのも嫌でしたし。

米長 その頃に作った詰将棋、今ある?

浦野 ええ、ありますけど、人に見せられるようなものではないんですよ。作り始めの頃ですしね。

米長 いやいや、それが良いんだよ。おう、おう、これ!(3図)。面白いじゃないか。こういうのを16、7の少年が寝ずに作ったっていうんだから。

 3図は初形が市松模様になっている趣向作。市松模様にするために双玉になっている。もち論、無意味な駒が置いてあってはいけない。詰ますのは2一の玉。詰め手順を記すと、▲3二と左、△同竜▲同と(中略)△6四玉▲6三竜まで61手詰。

浦野 この頃はもう、奨励会の将棋指してて”なんで王様が二つあるんだろう”と、フッと不思議に思う時があるんですよねえ。そのぐらい異常でした。

米長 こういうものを考えていて、実戦には当然役立たないわけだよね。

浦野 関係ないですね。むしろマイナスだと思ってました、当時は。

米長 それでも好きでやってたわけだ。

浦野 ちょっとヤケクソ気味もあったんでしょうね。全然将棋、勝てないし。

米長 ヤケクソというのとはちょっと違うんだろうけどね。しかし、そのハケロが詰将棋に来るというのは変わってるね。普通は他の所に行くけどね。

浦野 本当は煙詰を作りたかったんですよ。しばらくして、それができたんですね。それで、納得ができたので詰将棋やめたんですよ。”四段になったらまたやろう”っていうんで。

米長 なるほど、一つの区切だったんだ。

浦野 そうですね。で、今はまたボチボチやってますけど。

米長 それはやっぱり長編?

浦野 まあ、いろいろ。7手詰とかも。面白いな、と最近わかったんで、そういうのとか。あと、煙詰はいつもやってます。煙詰はどうしてもいいやつを作りたいんですよ。後世に残るようなやつを。

米長 そうすると、10代はとにかく将棋に明け暮れたわけだ。将棋にしろ、詰将棋にしろ、手合係にしろ、ね。で、現在はどんな生活をしているの。

浦野 今は、まあ、詰将棋と将棋ですよね。あと、麻雀、トランプ、読書、こんなのが生活のほとんどですね。今一番楽しいのが、勝負をしている時なんですよ、将棋でもトランプでも何でもいいから。

米長 ああ、そういう時が一番将棋に乗ってる時なんだ。将棋に乗ってる時はね将棋が一番楽しいからね、なんたって。

浦野 今は特に順位戦が楽しいですね。

米長 まあ、頑張って「昇級者の喜び」というので、またマガジンに出てくれよ。

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「あれっ、今日は妹さん来てないの」
「ええ、仕事をしてましてね。残念だと言っていました」
「本当にそう言ってたのか?」
「いや、聞けばそう言うと思ったんですけど(笑)」

の会話が絶妙だ。

「本当にそう言ってたのか?」というツッコミをぜひ見習いたいところだ。

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「まさか砂糖を入れるような人はいないでしょうね」

コーヒーをブラックで飲むという人の比率を調べてみた。

すると、ある調査(サンプル数4,479)では、なんと47%もの人がコーヒーには何も入れないという結果が出ていた。

コーヒーはブラック派が47%と約半数! 入れるならミルクという結果(niftyニュース)

これほどブラックの比率が高いとは思わなかった。

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「この頃はもう、奨励会の将棋指してて”なんで王様が二つあるんだろう”と、フッと不思議に思う時があるんですよねえ。そのぐらい異常でした」

それくらい詰将棋に打ち込んでいたということだから、すごいことだと思う。名言だと思う。

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それにしても、玉が1つしかない将棋があったとしたら、これはこれで目的意識を持つのが非常に困難なものになるだろう。

相手玉がなかったとしたら虚しさの極致、自玉がなかったとしたらアイデンティティの喪失。

やはり玉は2つあるのが良い。

「将棋界のマッチ」

近代将棋1986年4月号、池崎和記さんの第9回若獅子戦〔阿部隆四段-浦野真彦四段〕観戦記「大型新人、阿部四段登場」より。

 関東の羽生善治四段(15歳)と並んで、将来の名人候補の呼び声の高い阿部隆四段(18歳)の登場だ。昨年6月に四段になったので今期順位戦には参加できなかったが、この4月からスタートする第45期順位戦(C2組)では期待通りの活躍を見せてくれると思う。

 関西が生んだ久々の大型新人。もちろん本誌初登場である。関西棋界では”強気のアベ”と喧伝されている。こと将棋に関しては一歩も譲らないと聞いたことがある。

「阿部クンは、言っただけのことはちゃんとやってるからエライよ」

 と、ある先輩棋士。”強気”は(こう言われるのを本人は気にしているようだが)自信の表れなのだから、もっと胸を張った方がいい。第一、阿部はそれを支える人一倍のものを持っている。その名は「努力」。何てったってまだ若いのだ。花が開くのはこれからだ。

 対戦するのは”将棋界のマッチ”こと浦野真彦四段(21歳)。写真でもおわかりのように、棋士ではめずらしいハンサム・ボーイ。

 この人は”詰将棋の名手”としても有名で、最近『杖将棋パラダイス』(2月号)に115手の煙り詰(作品名「雪姫」)を発表した。

 浦野が詰将棋の世界に入ったのは4年前、奨励会二段の時である。将棋が全然勝てず、そこから逃れるようにして古今の名作詰将棋を解き出したのがきっかけだったという。煙り詰(盤上39枚の駒が手順を追うごとに消えていき、最後には玉と攻め方の駒2枚だけになる)といえば、伊藤看寿の図巧九十八番が有名だが、現代作家の中にも傑作は多い。

「駒場和夫さんの『父帰る』を見て感動しまして…。これがケムリを作り始めた動機です。実は『雪姫』の他にももうひとつ完成作品があるのですが、まだ発表していません。『雪姫』は2作目。完成に3年かかりました」

 と浦野。『雪姫』の評価が出るのはこれからだが、夢の中で余詰の研究をしたことがあるというから驚く。作品名の由来は?と聞くと「雪が少しずつとけていくイメージから」という返事。詰将棋にもいろんなジャンルがあるが、浦野が取り組んでいるのは長編である。詰棋界では”構想モノ”と呼ばれている。

「生涯で、たった一作でいいんです。歴史に残るようなケムリを作りたい」

 『雪姫』は、その夢を実現するための大いなる第一歩といえるかもしれない。

(中略)

 いま、関西若手棋士の間で静かなるブームとなっているのが、トランプとマージャンと囲碁。トランプは奨励会員を中心に大流行。マージャンは浦野、森五段など。囲碁は最近はやり出し、脇六段や児玉六段が筆頭株主。

 ギャンブルといってもたわいないもの(レートはきわめて低い)で、むしろゲームそのものを楽しむ方に重きをおいている。たとえばマージャンだが、リーチ一発もなければ、カンウラもヨコもない健全ルール。ギャンブル性を極力排除しているのが特長で、この新ルールを確立したのが浦野と森である(この2人は同じ詰キストとあって仲がいい)。読みと読みの勝負になるから、こうなると棋士は強い。旧ルールで威勢のよかった某連盟職員氏などは惨敗の連続で「もう棋士の先生方とはマージャンはしません!」と引退宣言をした、と最近聞いた。

 プロになって間もない阿部は、奨励会員相手のトランプ組だ。大貧民ゲームが好きと聞いているが「ページワンとかナポレオンはルールが複雑で覚えきれないから、できない」という説がある。しかし、これで良し。面白すぎるゲームは、本業(将棋)の妨げになるから深入りしてはいけない。

(中略)

 浦野と阿部は、私の師匠(駒落ち将棋)である。両センセイに正式に”弟子”と認めてもらったわけじゃないけれど、私は勝手に決め込んでいる。

 以前、阿部に関西将棋会館の道場で飛車落ちを教えてもらったことがあり、その時、阿部の教え上手に感服した。指導将棋では異例の、1時間ぐらいの感想戦だった。「ここはこう」「こう指せば上手が困りますね」とか一手一手の解説が実にていねい。”強気の阿部”とはほど遠いやさしい指導だった。プロには厳しく、アマにはやさしく―これが阿部の信条なのだと思った。この時から私は、阿部のファンになった。

 浦野センセイは、まったく正反対。個人的に親しいせいもあるが、センセイは実にキビシイ。「二枚落ちでも相当キツイんじゃないですか?」などと脅しをかけてくるから、こちらは戦々恐々。二枚落ちの戦績は…これは私(アマ三段格)名誉のために書かないことにしよう(センセイはいま「次は四枚落ちに追い込んでやる!」と息まいています)。

(中略)

 観戦記者は、あんまり盤側にヘバリついてはいけないというのが、対局室での暗黙のルールである。横でウロウロしていたら対局者が読みに集中できないからだ。

 観戦記は一種のルポルタージュ。ならば、棋士の一挙手一投足を最後まで観察するのが本筋、という人がいるが、私はそうは思わない。プロゴルフの、グリーン上のギャラリーのマナーと同じで、傍観者の何気ない動きが棋士の読みを狂わすことがあってはいけないのである。

 もうひとつ。これは他でも書いたのだが「観戦記を女性が担当すれば棋譜がゆがんでくるだろう」というのが私の考えである。ゆがむ、というのは決して悪く、という意味ではもちろんない。たとえばの話。本局を菊池桃子チャンが観戦すれば、阿部クンは「平常心」で駒を動かすことができるだろうか。ちなみに阿部クンはモモコの大ファンで、彼の定期入れには彼女のブロマイドが2枚(!)入っている。

(中略)

 関西に、その名も「関西新聞」という日刊紙がある。将棋連盟関西本部所属の奨励会員たちの熱戦譜が、自戦記スタイルで毎日掲載されているのだが、これが抜群に面白い。彼らの本音が生き生きと書かれているからだ。

 その中で、最近とくに目を引いたのが藤原直哉君(三段)の自戦記。自戦記を銘打ってあるものの、棋譜の解説はほとんどなく、プロ棋士になるために、もがき、苦しみ、戦っている奨励会員たちの日常が、さりげなく、しかも抑制の効いた乾いた文体で見事に活写されている。さりげなく、というのはあくまで藤原君のレトリックによるもので、したたかに計算された文章であることがわかる。私は藤原君を知らないけれど、とてもナイーブな感性をもった青年なのだろう。読後、サリンジャーの一連の作品を思い出したほどである。ここに紹介できないのが残念だが、奨励会にこれほど文才のある人がいるとは思いもしなかった。藤原君よ観戦記者にならないか。

 おーっと。また脱線してしまった。

(以下略)

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近藤真彦さんが飛ぶ鳥を落とす勢いの頃だったので、真彦といえばマッチ。

写真を見ると、観戦記に書かれているとおり、浦野真彦四段(当時)がジャニーズ事務所に所属していても不思議ではない雰囲気を放っている。

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煙り詰「雪姫」は、浦野四段が村山聖三段(当時)に検討(余詰めがないかなど)を頼んでいる。

村山聖四段(当時)「いまはちょっとまずいです。反対側から行きましょう」

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「観戦記者は、あんまり盤側にヘバリついてはいけないというのが、対局室での暗黙のルールである。横でウロウロしていたら対局者が読みに集中できないからだ」

盤側にずっといたら、手の良し悪しなどが感想戦までわからないということになるし、控え室での検討も聞くことができないし、ずっと座っているのも大変だし、更には池崎さんが書いているとおり「何気ない動きが棋士の読みを狂わすことがあってはいけない」ということも気をつけなければならない。

観戦記者が盤側に張り付きっぱなしではない理由はこのようにいろいろとある。

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藤原直哉七段の書く文章は自戦記も随筆も非常に面白く、奨励会時代からその才能が発揮されていたことがわかる。

藤原七段の自戦記→五つ星の自戦記

藤原七段の随筆→藤原直哉五段(当時)「奥さん、一緒にラーメンの汁をすすりませんか」

村山聖五段(当時)「雀卓の前で倒れても本望です」

将棋マガジン1990年3月号、神吉宏充五段(当時)の「何でも書きまっせ!!」より。

 さて、私は村山五段と対局だが、村山といえば最近は麻雀が命だそうで、師匠の森五段の言葉を借りれば命懸けで麻雀をやっているそうだ。

 とにかく雀荘に一人で打ちに行き、オールナイトの所があれば朝までは、やっている。先日の指し初め式の時には前日から打って朝に連盟に顔を出し、夕方からまた徹マン。

 村山はこう公言してはばからない。

「雀卓の前で倒れても本望です」

 私は想像する。あの風貌でふらりと一人打ちでやって来た村山を見れば何も知らない人間ならきっと怖くて打てないのではないかと……。

 ところで読者の皆さん、現在麻雀の関西最強といえば誰だと思いますか?正解は女流の鹿野圭生女流1級。その強いヒキには脇六段も引退を決意したといわれている恐るべき打ち手なのだ。(ゼッタイやらんとこ)

(以下略)

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一昨年亡くなられた元・近代将棋編集長の中野隆義さんは、村山聖九段の麻雀について、

  • 危険牌を打つとき、顔が45度くらい傾くのが癖
  • しかし、そういったときに限って、その危険牌が通ってしまうと少ししてから上がってしまう

と書かれている。

中原誠十六世名人が最終盤にトイレへ立ったとき、羽生善治九段の手が震えたとき、と同じように麻雀においては村山聖九段の顔が傾いたとき、必勝形ということになる。

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雀荘に一人で行く友人がいた。

知らない人と麻雀を打つなんて怖くないのかなと思ったが、よくよく考えてみると、将棋の道場も、知らない人と将棋を指すわけで、なるほどそういうものなんだなと一人で納得したことがあった。

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この頃の村山聖五段(当時)の麻雀について、泉正樹六段(当時)が書いている。

村山聖五段(当時)の四角いジャングル(前編)

村山聖五段(当時)の四角いジャングル(後編)

 

二上達也九段「どうも私の目が高かったというより、運が良かったということのようで」

近代将棋1985年10月号、若谷純さんの「駒と青春 大器あいうつ」より。

「A級八段はまず間違いないでしょうね」

 毎月一度、報道関係の記者らが参集する、東京将棋記者会なる会合がある。将棋連盟との意見のやりとりや情報交換の後は軽く一杯やりながらの懇親会となるのが定跡となっている。冒頭の言葉は、その席上での二上達也九段のものである。居並ぶ記者連は、一様にオッ!という表情になった。こういった類のことはめったなことでは口にしない二上九段が太鼓判を押したのである。

「羽生君は、そ、そんなにですか」

「間違いなしの大物かあ」

「さすがは、お目が高い」

 皆が嘆声にも似た口調で、言を発する中、二上九段はにこやかに続けた。

「いえいえ、弟子にとる前から分かっていたわけではないんですが、どうしても弟子にしてくれというのでね。その熱心さがあるなら大丈夫だろうと弟子にしたのですが、しばらくして将棋を見て、コレハ、と感じたわけでして……。どうも私の目が高かったというより、運が良かったということのようで」

 どうしても、というところでは、これも大物と目されている中田功の入門もそうであったと記憶している。昭和55年が明けて間もない頃のことである。

「どうしても、先生の弟子にしていただきたい」との旨の手紙が大山康晴十五世名人のところに舞い込んできた。この2月に大山十五世名人は”船の旅”で九州に行くことになっていた。福岡の天才少年は、同行した関根茂九段と飛香落を指した。

「これなら大丈夫でしょう」

 九段のお墨付きをもらって、めでたく入門が許されたのである。

(以下略)

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羽生善治九段が三段になって3ヵ月目(四段昇段5ヵ月前)の頃の東京将棋記者会懇親会での会話。

「A級八段はまず間違いないでしょうね」

師匠であり、また将棋界の紳士である二上達也九段の言葉なので、かなり控えめな表現なのだと思う。

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「羽生君は、そ、そんなにですか」

このように驚く記者がいたとは意外な感じがする。

藤井聡太七段の三段時代、「藤井三段はA級八段はまず間違いないでしょうね」と言ったとしても、そのように驚く人はほとんどいなかったのではないだろうか。

現代であまり驚かなくなったのも、羽生九段で経験済みだから、と考えることもできる。

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二上九段は当時、羽生少年が通っていた八王子将棋クラブの顧問をしており、そのような縁から羽生少年は二上門下となった。

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この当時の羽生三段の自戦記。

羽生善治三段(当時)の初自戦記