将棋世界1989年1月号、谷川浩司名人(当時)の「名人の読みと大局観」より。
「相手はどっちの手を指してほしいんだろう」
1図の局面を前にしての、米長九段の独り言である。
矢倉を指さない居飛車党、を未だに続けている私としては、後手番で初手▲7六歩と突かれた時の作戦が難しい。というわけで、よくお世話になるのがこの横歩取りである。
岐れでは殆ど良くならないが、何故か勝率は良く、62年4月以降、5勝1敗なのである。
従来は1図での最善手は▲3二飛成とされていたが、最近、特に10代棋士の間で、▲3六飛がよく指されている。
▲3六飛以下、△同角▲同歩△2七飛▲3八銀△2五飛成▲7七銀△6二銀▲2七角(A図)と進んだのが、対羽生四段(当時)戦、NHK杯戦だが、これはひどい目に遭った。唯一の敗戦局である。
▲3二飛成か▲3六飛か、どちらをお望みか、というのが独り言の意味なのだが、米長九段は、相手の意志をそらすタイプではない。
というより逆に、相手の得意に敢えて飛び込んで戦うタイプである。
そんなわけで、米長九段と戦う時は、こちらの気持ちをはぐらかされてガッカリすることがない。気分良く戦うことができるし、歯車が噛み合って大熱戦になることが多いのである。
横歩も必ず取ってくれると信じていた。そして、1図から、一度指してみたい形があったのだが―。
(中略)
「嫌な男の顔を、思い出させてしまうかもしれないね」
再び、独り言である。
なるほど、▲3六飛と引けば、私が公式戦で2連敗している羽生五段の顔を思い出すわけか。
だが、その推測は外れていた。
11分考えられた米長九段の指し手は、▲3二飛成。以下、△同銀▲3八銀△3三銀▲1六歩(2図)まで、ノータイムで進む。
私が思い出したくない顔というのは、1ヵ月前タイトルを取られてしまった森王位のことだった。
△3三銀に対しては、▲4五角、▲7七銀、▲6八玉辺りが一般的だったが、▲1六歩というのは、1年半程前に棋王戦で森九段(当時)に指された手なのである。
森新手。狙いは、いきなり角をいじめることである。
(中略)
一度指してみたい、と思っていた▲1六歩(2図)に対する、△4四歩▲6五角△3一飛だったが、本局で得られた結論は、私にはややつらいものがあった。
この変化が先手指しやすい、ということになると、初手▲7六歩に対して△3四歩と突きにくくなるのである。
感想戦終了後、見ていた弟弟子の井上慶太五段に、
「今までこの戦法で稼いできたのだから、良いではないですか」
と慰められたが―。
後手に新対策はあるのか、それとも、矢倉を勉強し直すしかないのか。
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▲3二飛成と▲3六飛、どちらにしても谷川浩司名人(当時)にとっては「嫌な男の顔」を思い出す手になるのだから凄い。
「嫌な男の顔を、思い出させてしまうかもしれないね」は、絶妙な独り言だと思う。
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全く慰めになっていない、井上慶太五段(当時)の「今までこの戦法で稼いできたのだから、良いではないですか」が、とても可笑しい。