林葉直子女流王将(当時)「先生、私にも握手」

近代将棋1990年9月号、林葉直子女流王将(当時)の「直子の将棋エアロビクス」より。

 私には、尊敬している先生方がたくさんいるが、その中で、まだ一度も握手をしてもらったことがない先生が一人いらっしゃる。

 この先生の手は、女性の私なんかより、ずっときれいでやわらかそうな手をしていらっしゃる。

 一度、思いきりその手を握ってみたいという衝動に駆られるのだが、女性の私から

「先生、握手」

とは、なかなか言えないものだ。

 で。将棋まつりなどでご一緒したとき、チャンスを狙って先生のまわりをウロウロするのだが、世の中、決して私を中心にはまわってくれない。

 だから最近では、「ああ、もう、先生の手と私の手は永遠に合うことはないのだわ、トホホ」

と内心ではなかばあきらめていた。

 ところが、つい先日、あるイベント会場でのことである。

 会の終了間際であった。

 小学5、6年生の子が、「◯◯先生、握手してください」と先生に手をさし出した。

 私は先生のすぐそばにいた。

 先生はにこやかに笑いながら、その子の手を握られた。

 今だ!私も同じように言えばいいのだ。

「先生、私にも握手」と……。

 私はゴクリと唾を呑み込み、ジットリと汗ばんだ手をスカートの腰のあたりで拭いた。

「先生……」、と手を伸ばそうとした。

 しかし、一瞬遅かった。

 先生は、その子の手を離すと、くるりと私に背を向けて、さっさと控え室のほうへ引きあげられるではないか。

「あ……」

 私は、その場にガク然と立ち尽くした。

 また、せっかくのチャンスを逃してしまった……。

「ああ、やっぱりダメなんだわ。私たちの手……」と、すっかりいじけてあきらめかかったとき、パッと私の頭にヒラメクものがあった。

 私は、すぐに向こうのほうに歩いていた少年の背に追いすがるようにして声をかけた。

 少年は振り返ると、怪訝そうな面持ちで私を見た。

「ね、ぼうや。オネエちゃんとも握手しよう」

 少年の目の前に、私は手を突き出した。

 少年は一瞬、ポカンとしていたが、すぐに手を出し私の手を握ってくれた。

「ヤッター!」私は心のなかで叫んだ。

 この子の手は、ほんの少し前、あの先生に握られた。その手を今、私が握っているのだ。

 ああ、私は幸せ❤

 私は危うくその子の手に頬ずりをするところだった―。

 どうです。これが私の真の姿なのです。

 間接キスどころか、間接握手で感動してしまう純情な娘、それが林葉直子なのです。

 誰です、ただの変態だけのことじゃないかなんて言うのは…!

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将棋世界1990年10月号グラビアより。撮影は炬口勝弘さん。

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明治時代か大正時代の女学生のような行動ということになると思う。

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高校入試の時、面接があった。

部屋に入って「森です」とあいさつすると、面接官の先生が笑顔で黙って右手を差し出した。

ミッション系の学校だったので、(さすが西洋流、握手で始まるのか)と思い、こちらも右手を差し出すと、「受験票」と言われた。

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1年後だったか2年後、その先生の授業の雑談で「昔、入試の面接で、受験票をもらおうと手を差し出したら、握手と間違えた間抜けな奴がいてさ」。

自分以外にもたくさんそのような人がいたはずだ、自分だけではない、と自分に都合よく、前向きに思い込むことにした。