七條兼三さんへの弔文

近代将棋1990年3月号、湯川恵子さんの「女の直感」より。

 電話に出た夫が、「ええーっ」と大声をあげた。少しかすれた、いやな叫び声だった。12月24日の昼頃。その訃報は詰棋作家のカドワキ氏が伝えてくれた。

 私は書きかけの年賀状を放り出し、でも何も手につかず、何本か電話をかけ、あとは夫と将棋を指して過ごした。忘年会の約束を忘れた。七條さんからもらった駒で、酒を飲みながら、ケンカもせずに夜中までうろうろと指し続けた。

 心臓マヒだったそうだ。夜明け前、上野公園の自邸の廊下で、一人でコテンと死んでいたなんて。いかにも照れ屋の七條さんらしい。

 3日前ラジオ会館で会ったばかりだ。詩吟の納会で、その日私は七條さんのはからいで岳精流宗家から初伝の免状をいただいた。七條さんが号をつけて申請してくれてからたった1週間という、宗家も「年を明けてからと思ったんだがねェ、あわてたよ」と言ったほどにスピーディーな拳証だった。その納会で久しぶりに七條さんのを聴いたのだった。

 秋月偶成。長い律詩だ。

『……富貴にして淫せず 貧賤にして愉しむ 男児此に到らば 是れ豪雄』

 枯れて哀愁ある高音で頭を振り振り吟じ上げてくれた。

 訃報の翌日。ラジオ会館では社員たちが目を赤くはらして慌ただしく動き回っていた。8階の社長室入口の所にある大きな鳥カゴの中で、小鳥たちはいつものようにチッチと餌をついばんでいた。

<僕んとこの社員はちっとも辞める気配がないんだョ……全員が定年までいるってェと、一体どうなるんでしょうねェ>

 和室には月曜会のいつものメンバーと詰棋の人たちがかけつけていた。

 26日。小雨ふる寒い晩だったが寺の境内は暖房機が設置されていて、暖かかった。通夜の儀の最後に詩吟仲間が遺影に向かった。マイクを握った宗家のリードで、七條さんの大好きだった詩、名槍日本号を合吟した。

『美酒 元来 吾が好む所 斗杯傾け尽くして 人 驚倒……』

 日本一の宗家だよ、と七條さんが言っていたその横山岳精の声が、上ずって震えていた。私は声が出なかった。

 受付にずらり並んだ記名帳は関係ごとに分かれていた。将棋、詩吟、囲碁、警察、消防、テナント……。電気メーカーは大小100社すべて来たと聞く。

 約1,000人が焼香した。翌27日の告別式も約1,000人が訪れた。

 香典も花もいっさい固辞された。

 最後に12台の車とバスが中華料理店へ着いて清めの会となるまで、総出の社員たちのみごとな気配りで、静かに暖かく大河の流れのように進行した。

 5年前、私は七條さんと会った。秋葉原ラジオ会館8階の和室で、月曜日の囲碁と将棋の会だった。プロと碁を打っている、色白でシミひとつない、ひとめ高貴な感じの横顔だった。

 いきなり怒鳴られた。

<将棋強くなりたかったらタバコなんか吸うなっ。女のくせに、生いきだぞっ>

 そのセリフと、おっかない顔に、私は非常に新鮮な感動を覚えた。初めてのタイプの男だ。以来月曜日がとても楽しみになった。

<だいたい君は将棋の才なんて全然ないね。碁?おメエのは碁じゃあない、ゴミだよ> 将棋は神田の料亭で2局指したきりだが碁が気が向くとよく教えてくれた。

 3年前の将棋の船の旅で、初めて七條さんの詩吟を聴いた。

 びっくりした。品の良い、なんとも憂いをおびた声に胸がジーンとした。詩吟とはおでこに青筋たてて大声でうなるものだとばかり私は思っていたのだ。それに、その直前まで酔っ払ってエバリ散らかしていた人物が、ヒョイと立ち上がって易々と別世界へ行ってしまったような、その変身ぶりが凄く面白かった。

 正直にそう述べたら、ジッと睨まれた。

<あのネ、僕ンとこにはどじょうすくいの名人もいるんだよ……おいコラッ笑ってねェで、どぜうにするか詩吟を選ぶか、はっきりしろいっ>

 七條さんはすでに月曜の会も木曜の詩吟もめったに姿を見せなくなっていた。私は昼から出かけて、夕方の稽古までのひとときを社長室で過ごすようになった。

 大きな机の真ん中は詰棋創作用の盤の指定席だ。七條さんはいつもその盤に向かっていた。細長い指が動くと手品のように盤上から駒が消えてゆく。長編趣向詰め条件作が得意だった。

<バカ言っちゃあいけない。君にいくら暇があったって詰棋はできねェだろ>

 時計をみてヨロリと立ち、梅酒や日本酒のビンを運んでくるのが定跡だった。盤の向こう側から、実に危なっかしい手つきでグラスのふちギリギリまでついでくれる。

 七條さんといると、私は不思議な気分だった。身の引き締まる緊張感と、足ながおじさんに甘え切った気分とを、全く同じ量で同時に味わっていた。

 七條小咄、と私は名づけていたけれど、得意のネタを繰り返しせがんでは聞いた。いつも少しずつ言葉とマが違う。工夫しているフシがあり、おかしかった。

<あの◯◯の野郎の、耳をネ。カミソリで剃り落としてやろうと思うんだ。まずくて食えねェから、ホルマリンに漬けちゃおうか。彼はとっても困って泣くよ。だって、メガネがかけらんなくなる>

 ユーモアでくるんだ諧謔から、七條さんの価値観を察するのが楽しみだった。

<今はもう、仏のシーさんですよ>

 何度かは私も、たとえば誰かが寄付金を頼みに来たようなとき、鬼のごとき七條さんを見た。しかし逆に、話も途中でさえぎってポンと出すときも見た。

 書画についても人間の行動に対しても、本物は本物、ニセ物はニセ物という、譲らぬ高い物差しを私は感じた。それが、照れ隠しも加味されて極めて独自のものだった気がする。少なくとも私は七條さんにそういう物事の差異を重んじたような意気に、憧れていた。

<君のは字じゃないよ。記号だよ>

 何度も頼んであげく勝手に色紙を持ち込んでおいたら、ある日、色紙なんか面倒くさいんだョ、と。小さな和紙の紙片を何枚か渡された。いろんな書体の毛筆で”湯川恵子”と書いてあった。嬉しかった。自分が丸ごと認知された気がした。

<自分の名前ぐらい、ちゃんと書けるようになれっ>

 先輩、形見をいただいちゃったァ。安心して、もういつ死んでもいいですよ。

<なにをーっ……ふむ。いい根性だ。では君にヨトギを申しつけよう。おい、何とか返事をせいっ>

 なんですか、ヨトギって?

<あ、君は、つくづく無学だねェ>

 七條さんは歌舞伎役者みたいに口ひんまげてみせるのだった。

 時間がきた。

 棺も、中へ納めた愛用のステッキも帽子も詩吟の教本も、跡かたもなく消えていた。そして真っ白に光る、ところどころピンクがかった所もある、本当にきれいな骨が整然と並んでいた。私はガク然とした。やっぱり、七條さんは急死だったのだ。ガンではなかったのだ。

<いてて。おー痛い。うん、体中がネ、痛くってしょうがないんだなァ僕は>

 しょっちゅうそのセリフを聞いた。聞くたびに私はゾッと悲しくて、仕方なくて、「社長、だんだんマがうまくなってきましたねェ」―わざとゴマする仕草で答えることにしていた。七條さんは少し笑ってくれたっけ。

 夫と二人で小さいのをひとつ、壺に納めた。11月に琵琶湖の旅へ連れてってもらったときを想い出した。

<しかし君は、指圧はちっとも上達しないねェ、うん。お願いだから僕の骨をこわさないでください>

 たまらず隅のほうへ逃げたらバッと誰かとぶつかった。団鬼六さんだ。団さんの顔もクシャクシャに濡れている。

「なァ。人間ちゅうのは皆、あんなんなっちまうんだなぁ……」

 73歳だった。晩年のたった5年間であったけれど、私なりに七條さんの大きな魅力に触れることができて、本当に幸せだった。七條さん、ありがとう。

 実はまだ、その辺の空中に七條さんの意識がぷかぷかと浮かんでいて、日夜いろんなことを言ってくる。その感じが、私はとてもうれしい。

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湯川恵子さんか団鬼六さんに弔文を書かせれば右に出るもの無し、と私は思っている。

秋葉原ラジオ会館の創立者であり、将棋界の大旦那で詰将棋作家でもあった七條兼三さん。

葬儀の日は、羽生善治新竜王が誕生した日だった。

死後、日本将棋連盟は七條さんに八段を贈呈している。

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この翌年、升田幸三実力制第四代名人が、さらにその翌年、大山康晴十五世名人が亡くなっている。

昭和という時代が完全に終わったと感じられる流れだ。

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下の写真は、近代将棋1998年6月号掲載の写真。

前列右が七條兼三さん、前列左が最後の真剣師・大田学さん、後列右が湯川恵子さん、後列左が広島の親分・高木達夫さん。

1988年に撮影されている。

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将棋界の大旦那「七條兼三」(1)

将棋界の大旦那「七條兼三」(2)

将棋界の大旦那「七條兼三」(3)

将棋界の大旦那「七條兼三」(4)

将棋界の大旦那「七條兼三」(5)

将棋界の大旦那「七條兼三」(6)

将棋界の大旦那「七條兼三」(最終回)

七條兼三物語(前編)

七條兼三物語(中編)

七條兼三物語(後編)