佐藤康光五段(当時)「普段いかにやっていないかを、思い知ったような。とにかく凄い体験でした」

近代将棋1990年12月号、湯川博士さんの「若手棋士インタビュー・佐藤康光五段 競争社会の駿馬」より。

 チャイルドブランドとか10代棋士というような表現をずっとされてきたけれど、言われている側の気持ちというのはどんなものですか。

「年齢でくくられるのは、いい気持ちじゃないですね」

 表現する側はその方が楽ですし、ファンの方も頭に入りやすいことはありますけどね。もう少し一人一人の個性面でとりあげてほしいということでしょうか。

「ええ、まあ」

 現実には元10代棋士も20歳を越え大人になって、また別の表現を考えなくてはならなくなったようですが。

「ボクなんかは、どう書かれても結局は勝っているかどうか、だと思っています」

 そう、勝っているからこそ書かれるし、勝てなくなると、ニックネームすらつけられなくなりますね。

 ところでこの間の王位戦は、初体験ですがどんな感じで臨んだのですか。

「そうとう不安でした。まず、恥ずかしくない将棋を、という思いが頭に浮かびました。タイトル戦は注目されていますが、ひどい将棋で飛ばされるんじゃないか。そういう不安がありました」

 勝ち負けよりも恥、ですか。若い棋士は勝つことが第一という印象を持っていますけど。

「タイトル戦はまた違う感じがありました。1局目と2局目はとても疲れました。対局の2日間を含めてずっと緊張していたような気がします」

 相手の谷川さんはどんな感じに見えました。

「とても余裕があって、リラックスしていましたね」

 相手がリラックスしていると、こちらもそうなるものですか、それとも逆に……。

「ボクは全然余裕がありませんでした。むしろ堅くなったかも(笑い)」

 何局目くらいから少し慣れましたか。

「3局目ですね。少し息抜くことを覚えまして。なにしろはじめは、一流旅館で、関係者の方がボクのために気を遣ってくれて、そういうことでもびっくりします(笑い)」

 そういえば屋敷さんが、スイートルームの特大ベッドにちょこなんと座っている写真があったけど、まず部屋でびっくりするんですね。

「それからタイトル戦の期間中の2ヵ月間はまったく将棋漬けで、ああいうことも今まで初めてでした」

 あれ。佐藤さんは普段でも将棋漬けじゃないの。そういう印象があるけど。

「いやいや。あの時はとにかく、寝ても覚めても将棋のことで頭が一杯という状態でしたから」

 それは谷川さんと戦っている将棋のこと。

「いや。そういうことではなく、いろいろな形の将棋で、気になる局面とか……」

 普段の研究の、うんと濃い状態と思えばいいのかな。

「そうです。普段いかにやっていないかを、思い知ったような。とにかく凄い体験でした」

 すると普段よりひとつ上のランクの状態を体験したというわけだ。

「そう、でしょうね」

 谷川さんをはじめ、タイトル経験者の普段の状態を体で知ったというのは、これは大きな財産だ。

(中略)

 今の若い棋士はとても研究熱心のようだけど、どんな研究をしているのかな。

「ボクは相居飛車の研究が主体です。相居飛車は戦いがはじまるとすぐ終わっちゃうところがあるでしょ。ですからやっておかないと。持ち時間の中では最善が見つからないですから」

 研究というと、ひとり机に向かって駒を動かし、凄い手を発見するなんてイメージが浮かぶんだけど。

「ひとりで駒を動かすことはありません。実戦を指して、そこから出てくる形を研究するんです」

 すると相手もわかっちゃうでしょ。

「あるところまではいっしょですけど、その先は各人の研究ですから」

 研究に指す相手は強い人がいいですか。

「そうですね。その方がいい局面が出ますから。ある程度は強い方がいいかもしれません」

 若い人で研究していない人はいないくらい。

「そうでしょうね。ボクなんかもやっていないと置いていかれそうな気がして、とても怠けていられません」

 そんなに強くても、ですか。

「いやいや。勉強していないとダメです。勝てなくなったらどうしよう……という不安がいつもあります」

 そうすると、皆が一斉に研究を放り投げたと確認できるまでは、休めないですね。

「ええ……」

 赤信号みんなで渡れば怖くない、ではなく、青信号みんな渡るからボクも渡らなきゃという心境なんだろうか。競争社会そのものの生き方だ。昔の棋士は、オレが一番になってやるという、蛮勇型の精神で前へ進んだのだが、今は遅れたくないという周りの圧力に突き動かされる部分が大きいのかもしれない。

 思えば棋士の気質もずいぶん変わったが、それは時代が変えているのだ。

 今の時代、それほど競争が激しいと、対局中心でとてもお稽古などやっている余裕がないみたいだ。対局も週に一度で楽なようだけど、実際はどんなものか。

「そうですね。週に一度だとちょうどいいくらいですね。週に二回が重なってくると、やや疲れますね。でも今は二回でもなんでも指したい気分ですけど」

 やはり好調な時はどんどん指したいんだ。同じ対局でも短いのや順位戦やらあるけど、そのへんはどうですか。

「順位戦は特別ですね。ちょっと異様な感じ。ボクは順位戦がよくなくて、スタート4連勝したことがないんですよ。4月にスタートして12月までに2敗していることが多いんです。1敗じゃないと目がないですから」

 タイトル戦に挑戦できてもやはり順位戦がものいいますか。

「ええ。……今はもうひとつ上のB2組しか頭にないですね」

 当然Aクラス、名人戦が目標なんでしょう。

「いやいや。そんな雲の上のことです。はるか過ぎて、見えません(笑い)」

 タイトル戦に出ているんだから、当然強いわけで、当然上に行くのが当たり前と思っているのかと思えば、そうじゃない。おそらく、55年組のタイトル戦大活躍と順位戦での苦戦ぶりが頭にあるのだろう。

 上のクラスと下のクラスはどう違う。

「上のクラスの人は余裕がある。C2組は当然余裕がないけどC1組は少し余裕が出てきているし、その上はもっとリラックスしているように感じます」

 将棋の違いということが出てくるかと思って聞いたら”余裕”であった。今の若い棋士たちは、人から見ると歳も若いのに金とひまがあって将来性もあっていいなあと、映るけど、そうでもないんだ。

「そうですね。そういうゆとりがあまりありません」

ときどき海外旅行に行くようだけど、あれは気分転換かな。英語もけっこういけるの。

「富岡さん(五段)といっしょで、しゃべる方もおんぶです。少し勉強しようと思っていますけど」

 海外の人と知り合うといいことあるでしょう。それに将棋の普及にもなるし。

「ええ。応援してくれたりして、嬉しいですね。将棋の普及も海外はまだ可能性がたくさんあります。チェスをやった人も、将棋を覚えると将棋の方が面白い、と言ってますからね」

 将棋界の将来なんて仲間と話すことはありますか。

「ええ。話しますけど……」

 やはり頭の中は将棋でいっぱいのようだ。

 喫茶店でしゃべってから、そろそろ時間ですから、というので外へ出た。小雨が降っていたが、ためらわず外へ出て、急ぎ足で駅に向かう。

「今日は午後から、櫛田さんのところで指すことになっています。明日順位戦なので指そうということで。ボクは前日は用事つくらずじっと家にいる方ですけど、櫛田さんは数少ない振り飛車党で力があるので、勉強になります」

 相手が強い人なら誰から頼まれても時間があれば断らないそうだ。

 でも今の人は本当に研究熱心だ。だからみんな強いんだろうね。

「ええ。これだけ一度に出てきたというのはやはり研究だと思いますね」

 チャイルドブランド出現についていろいろ書かれたりしているが、この言葉が端的に表しているだろう。そしてこの研究熱心をつくり出したのは、受験勉強が醸し出した、まごまごしていると置いていかれるという恐怖感か。

 そうしてもうひとつ。昔の棋士のように”飲む打つ買う”に溺れないほどほど体質が本業である将棋に力を入れる結果になっているような気がする。

 豊かな時代に育った若者は飢えた狼のように酒や女や博打に走る必要がない。自分に与えられたテーマを一生懸命にやる……。

 そんなことを考えていたら、新宿に電車が着き、大久保へ行く佐藤が、

「あの、ボクこの先ですので、ここで失礼いたします」

 育ちの良さそうな顔をこちらに向けて、声をかけてくれた。会った時と同じ淡々としたリズムであった。

近代将棋同じ号より。

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佐藤康光九段が21歳の時のインタビュー。

佐藤康光九段らしさが確立されつつある時代だと思う。

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「いやいや。勉強していないとダメです。勝てなくなったらどうしよう……という不安がいつもあります」

この姿勢が、この後もずっと続いている。

佐藤康光竜王(当時)「休み?休みなんか要るんですか。だって勉強は労働じゃないでしょう」

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「おそらく、55年組のタイトル戦大活躍と順位戦での苦戦ぶりが頭にあるのだろう」

これは推測になるが、羽生世代の棋士たちは、前の世代がどうだったから、のような考え方はしないと思う。佐藤康光五段(当時)が、あくまで純粋に謙虚なのだと思う。

また、

「そしてこの研究熱心をつくり出したのは、受験勉強が醸し出した、まごまごしていると置いていかれるという恐怖感か」

羽生世代の棋士は、小学生時代に奨励会入りしており、受験の雰囲気が醸し出すものとは無縁の世界だった。

外部環境とは関係なく、ただただ純粋に負けず嫌いで、なおかつ研究熱心だったような感じがする。

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写真は、千駄ヶ谷駅のホームと思われる。

雨の降っている雰囲気が伝わってくる、なかなか情緒のある写真。