近代将棋1991年1月号、甲斐栄次さんの第13回若獅子戦決勝〔村山聖五段-佐藤康光五段〕観戦記「栄冠は村山に」より。
いよいよ決勝戦である。
若き精鋭13名が青春のエネルギーをたぎらせ、一年間にわたり熱闘をくりひろげてきた。その総決算が、数時間に出されようとしている。
昨夜から今朝にかけて、秋口の台風20号が日本列島を縦断し、三陸沖に走り抜けた。台風は西日本一帯に大雨を降らせて災害を起こしたが、今日の主役 村山聖五段も小さな被災者の一人だった。
「昨日は、新幹線、飛行機、東名バス、みな止まり、新大阪まで出てみたが動けんかった。あかん、不戦敗かァ、思ったけど、今朝になって回復して……」
若獅子戦の試合開始は午後1時。これで助かった。朝、大阪を発ち、なんとか定刻前に東京将棋会館に到着できたのである。
もっとも、前日のあおりを受け、列車は満員だった。やむなく「立ってきた」のだが、病弱の上、160センチ、70キロ(将棋年鑑による)の肥満体の彼には辛かったろう。小さな被災者になった、というのはこのことである。
ただし、村山は重い体重を両足で支えつつ揺られながら、益々、自らを奮い立たせ、禍いを転じて福となさんと心に誓ったのではなかったか。
(こんな苦労して東京まで将棋を指しに行くのはなんのためや。負けて帰るわけにはいかんでぇー)
精神の充電がよく肉体の疲労を制したとみえ、村山の指し手は緩急自在をきわめた。いわば彼は、台風の大水に膝上まで浸かりながらも懸命に猿臂を伸ばし、流されんとする優勝カップをむんずと掴んだのである。
(中略)
”蓬髪垢面””櫛風沐雨”といった形容詞を、司馬遼太郎氏は自ら描いた「坂本龍馬」に当てはめていたと記憶する。くだいて言えば、頭はぼさぼさで垢だらけ、風雨を風呂がわりにして身だしなみなどは一切お構いなし―そんな龍馬像を司馬氏はつくりあげたわけだが、今、眼前で盤と向かいあう村山が好例と言えるかもしれない。
スーツにネクタイという出で立ちではあるが、対局なればこどであって、内心では(面倒くさい)と思っているにちがいないのである。
僕はあくまで村山に好意を抱いて言っている。こんな風変わりな将棋指しがいる棋界を面白く感じているのだ。
頭髪は耳をおおい、無造作に背中に垂れ、前髪は、目に入らんとするところで邪魔になり、ようやくちょん切ったといった態である。
爪は4ミリか5ミリも伸び放題。指先が人一倍美しい棋士達の中にあってこれは目立つ。
いつぞやNHKの衛星放送で「村山五段の爪は病気のためにわざと切らない。切ると体にさわる」と釈明していたが、そんな病気があるものかしら、と僕はずうっと疑問に思っていた。終局後、ビールを飲みながらざっくばらんに尋ねてみたら、「不精なだけです」と、おうむ返しに答え、さすがにニヤリと笑った。僕は本音、聞き取ったり、と思わず膝を叩き、彼への好感を深くしたものである。
(中略)
179手。双方が死力を尽くした大立ち回りは、佐藤が静かに頭を下げて幕となった。
村山聖、棋士としての約7年の研鑽を経て念願の初優勝。この道を選んでよかった、とつくづく感じられる栄光の日がめぐってきた。
「医者に止められてまんねん、けどちょっとくらいなら…」
打ち上げの小宴で、わずかにビールをグラス一杯だが、二上達也将棋連盟会長、永井英明本誌社長の前で旨そうに干し、終電間際の東京駅へ向かった。グリーン車のソファーがさぞ心地よいことだろう。
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村山聖五段(当時)の棋戦初優勝の模様。
四段になって4年、奨励会の入会から7年だった。
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新大阪から東京までの新幹線を、混雑する車両の中で立ってきて、着いてからほどなくしての対局。
なおかつ179手の大熱戦。
写真の一番上、二上達也会長からトロフィーを受け取る時の村山五段の嬉しそうな顔が印象的だ。
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村山五段は広島市の出身なので、ここで書かれているような関西弁を実際に話していたかどうかは分からない。
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この日(1990年10月1日)は、佐藤康光九段の21歳の誕生日だった。
誕生日を優勝で飾ることができなかった佐藤康光五段(当時)だったが、これより少し前、同じ年の6月16日に第9回早指し新鋭戦で森内俊之五段(当時)に勝って、棋戦初優勝を果たしている。