将棋世界1991年6月号、「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 丸山忠久四段の巻」より。
―プロ棋士になった人は、皆かなり小さい時から将棋を始めたようです。丸山さんの場合はどうだったのでしょうか。
「小学校4年の秋頃、クラスの友達と一緒に木更津支部の将棋道場に行ってからですから、それほど早いほうではないと思います」
―クラスの友達というと、将棋を指す好敵手がたくさんいたわけですね。
「ええ、その頃、クラスで将棋が流行りまして。先生の方で、休み時間ならやっても良いということで、みんなとよく指しました」
―それは羨ましい話ですね。一時、将棋が今ほど理解を受けていない頃は、休み時間でも学校で将棋を指すのは禁止というところが結構ありましたからね。かく言う私も、昼休みに将棋を指しているのが見つかって、将棋の盤駒をよく先生に取り上げられたものでした。
「でも、ボクのとことも少ししたら禁止になっちゃいました。そのうちみんなが熱中しだしてきて授業中にもやりだすようになってしまったんで(笑)」
―丸山さんが学業優秀と聞き及んでいますから、まさか授業中に……なんてことはなかったですよね。
「えっ、そういうことはしなかったと思います。よく覚えていませんよ(笑)」
―せっかくの流行にストップがかかってしまったのは残念でしたね。学校でできなくなったので、道場に行くようになったのですか。
「いえ、そういう訳ではなくて、クラスの中に強い子がいたんです。その子から強さの秘密を聞き出したという記憶があります」
―なるほど、どうして強いのかを探っているうちに木更津支部の道場が近所にあるのを知ったということですね。
「そうです、それで普段からよく遊んでいる仲間と一緒に6、7人で行ったという記憶があります」
―独自の調査でせっかく強い人の秘密を探り出したのに、友達みんなに教えてあげちゃうというのは気前がいいですね。もったいない、独り占めしちゃえとは思いませんでしたか。
「秘密といっても、それほどたいしたことではありませんし、子供でしたからそういうセコイことは考えないですよ(笑)。友達みんなで行った方が楽しいですしね」
(中略)
―お父さんから手ほどきを受けてからクラスの友達と指していた頃は、どんな戦法をやっていましたか。
「戦法といっても、その頃は戦法に関して知識も全くありませんし、なにしろ金と銀の動きを間違っちゃうというくらいのレベルでしたからね。そういえば、銀の動きかなんかでもめちゃって、友達とケンカになっちゃったなんてことがありました(笑)」
―将棋の本はまだ読んでいなかったのですね。
「本を読むようになったのは道場に行き出してからです。それ以前は、適当に指していました。居飛車と振り飛車の概念なんかも全くなくって、初手でいきなり真ん中に飛車を振ったり、もうなんでもありっていう感じで指していましたね」」
―将棋の本はどういうものを読みましたか。
「それほど本を読んだという記憶はないんですけど、自分の興味を持った戦法について書いてあるものだけを読んでいたという感じでしたね」
―というと読んでいた本は定跡書ということですね。棋書の中でも定跡の本は指し手の解説が中心ですから息を抜くところがなくって、初心の頃の人にとってなかなか難しいと思いますが……。
「その戦法について調べたいからというか、読みたいから読んだという感じでしたから、難しいとかはあまり思わなかったですね」
―詰将棋の本などはどうでしたか。
「詰将棋の本を読んだことは少なかったですね。やると頭痛くなっちゃってたんで(笑)。分からないとすぐ答えを見ちゃうほうでしたからね。でも、詰将棋にちょっと興味を持った時期もあって、詰将棋を作ろうとしたこともありました」
―では、将棋雑誌などに投稿したことも……。
「いえ、とてもそんなレベルじゃなかったです。なにかの本を見ていて、はっとさせられた手があって、ああ、こうやって詰むのかって感動して。それで、その筋で詰将棋を作ろうとしたんですけど、どんな図面だったか記憶にないところをみると完成しなかったんでしょうね」
―道場での稽古ぶりを教えてください。
「木更津支部支部長の鈴木三郎という方によく教えていただきました。最初は六枚落ちからスタートしました」
―級位は何級からでしたか。
「8級からでした。この道場に来て、初めて将棋のきちんとしたルールを覚えたというか……。それまでは、駒の動かし方とか、かなりいい加減なルールでやってました。ですから、ボクにとって、将棋を本格的に始めたのは、道場に行き出した時からという感じですね」
―駒落ちの定跡は教わりましたか。
「ええ、初めに六枚落ちの定跡を教えてもらって、その通りに指していました」
―道場での将棋は駒落ちオンリーだったのですか。
「友達と指す時は平手でしたし、少し強くなってからは大人のお客さんとも平手で指しましたから」
―六枚落ちからというと、駒落ちの基本から教わったということになると思いますが、それは今、ご自身から見て上達する上でためになったといいますか、良かったと思いますか。
「今思えば、例えば、六枚落ちの定跡は、端に兵力を集めるという数の攻めを、飛車落ちの定跡は、お互いの主力が正面衝突した後の一手を争う寄せ合いを、と、それぞれ上達のためには必要な基本技の大切さを教えてくれているわけで、大変ためになったに違いないですよね。でも、子供の頃は、そんなことには気付かないで、相手の駒がどんどん増えていくのがなによりの楽しみで指し手ましたね。手合いが上がれば相手の駒が増えるわけですから、自分が上達したというのが一目瞭然で分かるというのが、良かったというか、何よりの励みでしたね」
―道場には毎日行ったのでしょうか。
「道場が開いているのは、土曜と日曜だけでしたので、週2日でした」
―それでは、普段の日は友達と指したりしていたんでしょうか。
「将棋を指してたこともあったでしょうけど、それ以外のことでみんなと遊んでいることの方が多かったですね。将棋も好きでしたけど、それ以外は自分でいうのも変ですけど全く普通の子供という感じでしたね」
―昇級ペースはどうだったでしょう。
「5年生になった頃に1級になりました。道場に行き始めたのが4年制の9月頃だと思いますから……」
(中略)
―それにしても、流石に驚くべき早さですね。1級から初段までもすぐでしたか」
「1級から初段になるのは半年くらいかかりました」
―それまでのハイペースからみると、ちょっと一息という感じですが、その頃何か苦労したというような思い出はありませんか。
「うーん。苦労したとか、上がれないということで苦しんだりとか、そういうことは思ってなかったんじゃないかな。そりゃ上がれれば嬉しいとは思っていましたけど、アマチュアで、ましてや子供ですから、何段になろうなんていうビジョンもありませんでしたし……。ただ将棋を指すのがおもしろいからやってたみたいなとこでしたかね」
―道場に一緒に行った友達も丸山さんのようにどんどん強くなっていたのですか。
「それが、友達は途中でみんなやめちゃいました。一番長くいた子で半年くらいでしたかね」
―引き止めたりはしませんでしたか。
「将棋の他にも、いろいろ楽しいことありますから(笑)。そちらに興味がいったのを無理に将棋をやらせてもしょうがないでしょうから、そういうことはしませんでしたね」
―丸山さんだけ将棋に興味を持ち続けたのはどうしてだったのでしょう。
「ボクは、熱中しやすいけどまた冷めやすかったんですけど、将棋だけは冷めなかったんです。子供ですから、楽しくなければすぐやめるわけで、そういうことがなかったのは、ずっと将棋が楽しかったっていうことだったんでしょうかね」
(中略)
―初段を目指している読者の皆さんのために、丸山さんから上達のアドバイスを聞かせてください。
「そうですね。やっぱり、自分で常に工夫してみるってことでしょうかね。工夫することによって新しい興味が湧いてきてマンネリ化するのを防いでもくれますしね」
―工夫するといいますと、具体的にはどういうことをするのでしょうか。
「例えば、定跡なんかでも、それを自分なりにもっと良い手はないかと考えてみたり、ちょっと改良してみたりとか、そういったことですね。ただ、実際は、定跡というのは、当然のことですが、かなり優れたものですから、もっと良い手なんていうのはめったにあるものではないんですけど、それでも自分なりに考えてみるってことですね」
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決して早いとはいえない小学校4年生の頃に将棋を覚え、プロになり、名人位を獲得することになる丸山忠久四段(当時)。
丸山少年が将棋を覚えた以前の年齢である小学校低学年の有段者はかなりいると思うが、皆が皆、丸山九段のようになれるとは限らないし、そもそもプロになれるかどうかもわからない。
やはり元々ある才能というものがあるのだと思う。(さらに、それに運の要素も加わる)
とはいえ、強くなるための方法は参考になる。
やはり、将棋を強くなるために最も大切なものは、将棋を好きであること、に尽きると思う。
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→「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 羽生善治棋王の巻」
→「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 森内俊之五段の巻」
→「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 郷田真隆四段の巻」