「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 村山聖五段の巻」

将棋世界1991年9月号、「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 村山聖五段の巻」より。

将棋世界同じ号より。

―将棋の検討をしていて終盤の詰むや詰まざるやの局面になり、どうにも難しくて分からなくなったら「村山に聞け」というのが、若手棋士の間で合言葉になっています。めったなことでは他人をあてにしないプロ棋士が、全幅の信頼を寄せるというのは凄いことだと思います。今日は、村山さんの終盤力が、どのようにして培われていったのか、そのあたりのことを知りたいと思います。

「将棋を覚えたのは、小学校の1年の時だったと思います。ボクは、その頃から体が弱くて療養所のような病院に入院してたんです。でも、子供ですから一日中おとなしくしているなんてのは無理で、よく暴れたらしいんです。それで、室内ゲームの将棋を覚えさせれば、少しは静かにするだろうと……」

―読み筋がしっかりしていますね。お父さんはかなりの腕前だったのではないですか。段を持っていたとか。

「そんなに強くはありませんよ。初段近くはあったかもしれませんが、なにしろボクが全然弱いですから自分より強い人の棋力なんて分からないですよ。それと、普通の指し将棋だけじゃなく”ガチャ”とか”金ふり”とか教えてもらいました」

―”ガチャ”というのは何ですか。

「箱に入った将棋の駒を、その箱をひっくり返して盤の上に山盛りに置いて、それを音をさせないように取っていくんです。無事に取れれば自分のものになって、途中で音をさせたらアウトで相手の番になるというヤツです」

―関東の方では”山崩し”とか”お金将棋”とか言うヤツですね。村山さんは広島出身でしたね。ガチャというのはいかにも感じが出た言い方ですね。”金ふり”というのは、おそらく関東では回り将棋というやつでしょう。金4枚を振って、スタートの歩が、香~桂~銀と順に玉まで出世していくのを争うスゴロク感覚のゲームですね。

「ええ、それで、はじめのうちは、父がガチャとか回り将棋とかの相手をしてくれてました」

―うーん。まず、将棋の駒に慣れさせておいてとは、やはりお父さんの読み筋というかやり方には、相当な手練れを感じさせられますね。小さなお子さんがいる方で、将棋を教えようと思ったら、村山さんのお父さんのようなやり方は、非常に参考になる手筋だと思います。

(中略)

―将棋の上達ぐあいはどうでしたか。

「1,2年生の頃は、まったく熱心じゃなくて、たまにやるという感じでしたんで、上達するわけはなかったんですけど、3年生になった頃に、同じ病室に中学生か高校生の、初段と5級くらいの人が入ってきて、それから今までより少し熱心に将棋をやるようになりました」

―初段と5級というと、弱い方の5級の人でも初心者の村山さんにとっては大変な強敵だったと思いますが。

「ええ、それは、全然勝てませんよ」

―全然勝てないではイヤになりませんでしたか。

「そういうことはなかったみたいですね。あまり覚えていないんですけど、たまに緩めて勝たせてくれたのかな。それに他にやることがなかったというのもあったかもしれません。まあ、相手の人がボクよりずいぶん年上でしたから、負けるのが普通という感じもあったですから……」

―将棋はそのお兄さん達からいろいろ教わったのですか。

「特に教えてもらったということはなかったと思います。時々将棋を指すくらいでしたから。その頃に、親に将棋の本をねだって、買ってきてもらいました。初めて読んだのは、内藤先生の本で、題名はたしか『矢倉の囲い方』というのだったと思います」

―初めて将棋の本を読んでみてどうでしたか。

「ボクにとっては、書いてあることは全部すごいというか、なにしろ九段の先生が書いている訳ですからね。今でも印象に残っているのは、矢倉の4手角定跡がありますよね(1図参照)。

 この形から▲4五歩△同歩▲4四歩△同銀▲4五銀△同銀▲4四歩(2図)と攻めて行くんですけど、それを完全に覚えました」

―その攻め筋は、いわゆる定跡手順とはいえ、途中の二度にわたる▲4四歩が後手の受けを許さない手筋で、かなり高度な内容を含んでいると思います。(中略)それを読んだだけで全部覚えてしまうとは、さすがでしたね。

「いえ、そんな、とんでもない。実際に盤に並べてですよ。それも毎日毎日、何回も何回もですから。逆に相当にぶい方じゃないんでしょうか。やってた割にはそれ程強くなりませんでしたからね。しまいには、本を見なくても手順だけじゃなくて、そこに書いてある解説を空でいえるようになっちゃいましたけど、それは、中身を理解したというより単に丸暗記したというだけですから、自慢にはなりません」

―いや、それにしても凄いですよ。村山さんの将棋のやり方には、何か迫力のようなものを感じますね。

(中略)

「将棋世界の初段コースにも何年か応募していたんですよ」

―初めて挑戦というか、応募しはじめたのはいつ頃でしたか。

「やはり3年の頃だったですかね。さっきも言ったようにそれまではあまり熱心ではなかったんですけど3年の時からけっこう熱が入って来たんです」

―問題は難しかったですか。

「ボクに初段の力がないので、なかなか点数が取れなくて……。100点満点で60点とか70点が多かったかな。あの頃は、全問不正解でも、20点くらいだったのですかね、なんらかの点数がもらえて、あれでずいぶん助かったというか……。全部できてないと気分的にもがっくりきますからね。それが、少ないなりにも少しは点数がもらえるというのはありがたかったですよ。1年半か2年くらいかかって初段の認定を受けました。その時は嬉しかったです」

―上の段位には進まなかったんですか。

「続けて二段コースにもはがきを出しました。たしか、二段の認定も受かったと思いますよ」

(中略)

「将棋世界を読んで、初段コースに応募するようになった頃は、他にもいろいろ将棋の本を読みました」

―それは定跡書のようなものが多かったんですか。

「そうですね。大山先生の『将棋は四間飛車』とか『将棋は中飛車』のシリーズものとか、定跡の解説書みたいなものも読みましたけど、実戦譜を集めたものもよく買って読みましたけど。中原先生の四段になってから三冠王になるまでの実戦集や加藤先生の実戦集が特に好きでよく盤に並べたものです」

―実戦譜は、その内容もかなり高度だと思いますが、抵抗なく並べられましたか。

「実戦譜を買い出すようになった頃は棋力の方も全くの初心者から少しは強くなっていて、初段に近くなっていましたから、解説を読みながら何回も並べてみて自分なりに、この手はこういう意味があるんだなと多少は分かっていたつもりでした」

―将棋の本は何冊くらい読みましたか。

「30冊以上は読んだと思いますよ。なにしろ、病院にいてひまですからね。朝起きて、食事して、昼寝して、風呂に入って、学校のようなものも病院の中にありましたし、その間に本を読む時間はヤマほどありましたから」

―あれっ、村山さんの風呂嫌いは有名ですが。

「信じられないでしょうけど、その頃のボクは極度のきれい好きで潔癖症だったんですよ(笑)。だから、本なんかでもシリーズものを買ったら、そのシリーズを全部揃えて買って読まないと気が済まないところがあって、大山先生の『将棋は……』のシリーズも全部揃えたんですよ。買った本も本棚にきちんと、それこそ少しのずれもないくらいに整理整頓してましたから」

―一度、村山さんの部屋を写真で拝見したことがありますが、失礼ですけどホントに信じられません。

「そうでしょう。だからこれ言わんとこ思ったんですが、つい口がすべってしまいました」

―5級の人と初段の人がいたそうですけど、その頃はもう勝てるようになりましたか。

「初段の人とは4年生の秋頃にいい勝負になっていたんじゃないかと思います。その人は、雰囲気っていうか感じがとても良い人でした。ボクが強くなってきた頃はよくその人のところに行って将棋を指してもらいました」

(中略)

「詰将棋もけっこう好きで、問題を解いたり、自分で詰将棋を作ったりもしたんですよ。一度だけど将棋マガジンに入選したことがありました」

―その詰将棋は覚えていますか。

「3図です。詰将棋学校っていったかな。伊藤果先生が講座の講師をしていた時でした」

―将棋マガジンの昭和56年11月号に(初入選)広島 村山聖さん作として載っています。昭和56年だから村山さんが12歳の時の作品ということになります。えーと、どうやって詰ますのでしょうか。ちょっと、考えさせてください。読者の皆さんも一緒に考えてみてください……。なるほど▲6五飛と打って△同歩▲6四馬△同玉▲7四飛までの5手詰ですね。飛車を捨てて歩を呼んでおいてその跡に馬を捨てるというのがシャレていますね。

「ええ、でもこれ、後で分かったんですけど、余詰があるんです」

―えっ。

「初手でいきなり▲6四馬と捨てちゃって、△同玉に▲7四飛△6五玉▲6六飛までで詰んじゃうんですよ。お恥ずかしい(笑)」

―ご愛敬というやつですね。解く方はどうでしたか。『詰将棋パラダイス』という詰将棋の専門誌がありますが、そちらの方にも手を伸ばしていたんではありませんか。

「詰パラを見るようになったのは、奨励会に入る頃からでした。初段前後の頃は、将棋世界とか将棋マガジン、近代将棋の詰将棋欄の問題を解いていました。特に、将棋世界には、全題正解を目指して、毎号毎号せっせとハガキを出していました」

―ありがとうございます。村山さんのことだから、全題正解ラッシュだったのでしょう。

「それが、全然でした。本が出てから締め切りのギリギリまで考えて出したんですけど、ハガキを出す時点でこれは分からないなんていうのもあったですし、自分ではできたつもりでいても後で本の答えを見たら間違ってたなんていうのはしょっちゅうでした(笑)」

―村山さんのことだから、さぞかしすごい解答力だったのではと思いましたが、意外に普通だったんですね。いや、安心しました。

(中略)

―読者の皆さんに、村山流の上達法を伝授してください。

「上達法ですか、上達は難しいですね」

―そこを何とか……。

「上達は難しいです。自分が嫌いなことをやらないと上達しませんからね。例えば、終盤が弱かったら詰将棋を解いて終盤を強くするとか……。詰将棋が解けるようになれば初段になれるんですよ」

―強くなるには、読みが大切ということですか。

「それもありますけど、それより、詰将棋をやると駒の性質がよく分かるんです」

―駒の性質?ですか。駒の性質とはどういうことでしょうか。

「駒にはそれぞれの利きがありますよね。その利きの違いで、駒によってその駒の弱点というのが、いろいろあるんです」

―金だとナナメ後ろが利かないからそこが弱点というわけですね。

「そうです。その弱点から形の急所っていうのが分かってくるんです。4図の詰将棋を解くにも、▲3二とと金を取ってしまうと駒は得しますけど△同玉で王様が広くなってしまう。そこで▲3三桂と打って金のナナメ後ろに利かない弱点を衝く。そこが形の急所になる訳です」

―なるほど、詰将棋の効用は、読みの力を養う以外に、駒の性質を知って、形の急所が分かるようになるということもあるんですね。

「弱いうちは、さっきボクが言ったみたいにそんなに順序だてて考えられなくてもそれでいいんです。たくさん問題を解いていくうちに、そのうち図面を見ただけで、パッと瞬間的に急所が分かるようになりますから」

―それは、誰でもそうなれるものなんでしょうか。

「ええ。誰でもなれると思いますよ」

* * * * *

村山聖九段、はじめの頃は30冊以上の本と将棋雑誌で実力を養成していたことがわかる。

相手が限られた実戦はあったものの、一般的には本だけで覚えた将棋は、筋は良いけれどもあまり力強くない将棋になってしまうと言われている。

そこがそうならなかったのは、村山聖九段のもともと持っている才能・資質によるものだったのだと思う。

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「初段の人とは4年生の秋頃にいい勝負になっていたんじゃないかと思います。その人は、雰囲気っていうか感じがとても良い人でした。ボクが強くなってきた頃はよくその人のところに行って将棋を指してもらいました」

この初段の少年の存在も大きい。

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昔の棋書では矢倉は、1図の4手角から攻める定跡が載っているものが多かった。

この4手角は、実際には後手に対抗策があってこのようにうまくは組めないのだが、この攻め方は非常にわかりやすく、ためになる攻め方だった。

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「信じられないでしょうけど、その頃のボクは極度のきれい好きで潔癖症だったんですよ(笑)」

酒を飲むと頭が悪くなると思って酒など飲むものかと思っていた高校生が大学に入った途端に大酒飲みになる、タバコが大嫌いだった大学生が社会人になったらヘビースモーカーになる、両方とも私のことだが、このように、頑なに守ってきたことが一旦崩れると、正反対の状態になる場合がある。

気持ちはとてもよくわかる。