谷川浩司竜王(当時)「結局、50手目で研究が外れた私が勝ち、66手目まで研究通りに進んだ森下六段が負ける、という結果となった」

将棋世界1992年2月号、谷川浩司竜王(当時)の第4期竜王戦七番勝負第5局〔対 森下卓六段〕自戦記「研究の功罪」より。

第4期竜王戦七番勝負第5局の時の谷川浩司竜王(当時)。将棋マガジン1992年2月号、撮影は中野英伴さん。

 対局場に向かう日、昼食の後。

 家で将棋盤に向かうことなど何日ぶりだろうか、と考えながら、駒を並べる。

 研究をしておかなければ、とは思っていたのだが、他の対局で忙しく、今日になってしまった。

 明日の対局は地元なので、家を出るのは3時半で充分。とすれば、2時間は研究できる。

 時期的にはやはりモーツァルトかな、と思いながらも、BGMには、一番好きなマーラーの5番を選ぶ。

 想定局面は、A図とB図の2つ。

 1勝2敗の苦しい状況であれば、やはり角換わりしかない。これで負けたら、竜王を取られても納得できるというものである。

 このうち、B図の方を相当に掘り下げて調べたのだが―。

 マーラーが終わり、CDを別のクラシックに変えても、私の作戦は遂に決まらなかった。

(中略)

 今期の竜王戦は、局面指定戦の趣きがある。

 私の方は先手を持って角換わりを指す以上は、1図は避けて通れぬ道、と考えているし、森下六段の方は、1図からの先手の攻めは無理、と考えている。

 双方が自信を持っていれば、その局面に進むのは当然というわけである。

 ただ、1図に至るまでのお互いの心境には、かなりの差があった。

 消費時間、森下六段の1時間5分に対し、私は2時間9分。それも▲3七桂66分、▲2五歩33分の後、1図でも51分。3連続長考をしているのである。

 1日目特有の間合いを計った時間ではない。仕掛けた後のことを、深刻に悩んでいた。

 第1局では、A図から▲3四角成△4三銀▲2五馬と進めたのだが、△5四角が攻防の一着で、以下苦戦に陥った。

 A図では単に▲2五角成も有力なのだが、△6五歩と反撃された時に、▲同歩と取って大丈夫なのか、または▲7二歩と垂らすのか、結局判らなかった。

(中略)

 実戦は結局、▲4五歩△同歩▲3五歩△4四銀▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2八飛(2図)

 ▲7五歩の突き捨ては指し過ぎになる可能性が高いと見て、単に飛車先を交換した。

 2図から△6五歩▲同歩△7五歩と進んだのがB図である。

(中略)

 こちらの方も、▲1五歩か▲6六銀か決めかねていて、指されてからもう一度考えるつもりだったのだが、森下六段は△6五歩▲同歩の後、△同桂(3図)。

 対局前日、1日目と、2図の局面は4時間程考えたのだが、△6五同桂という手は殆ど読まなかった。

 3、4、5局と、攻めるつもりなのにどうも受けに回る展開になってしまう。森下六段は受けの棋風というのは、嘘ではないかという気さえしてきた。

 ここで封じ手となった。▲2二歩△同玉▲6五銀△同銀▲3六桂△5五角は少し無理気味なので、穏やかに▲6六銀。

 以下、△6四角▲5九角△4三金右▲6五銀右△同銀▲同銀△5五角▲7七銀(4図)。この8手が、2日目に入って僅か45分で進んだ。

 △6四角に▲2七飛だと、△8六歩▲同歩△8七歩が嫌なので、▲5九角と受ける。

 ▲6五銀右からの桂得が確定しているので、ここは辛抱である。

 ただ、気になったのは森下六段の早い着手である。△4三金右などは、普通10分では指せないはず。2日目の午前中というのは、一番手が進まないものなのだが―。

 4図では、△8六歩▲同歩△8八歩▲同玉△8五歩のような攻めかと思っていたら、森下六段は△8六歩▲同歩の後、△3六銀▲4八金△4六歩▲5六銀△7三角(5図)。

 驚いたことに、森下六段は5図までが研究手順で、これで指せるという結論を出していたらしいのである。

 66手目までが研究範囲。将棋もとうとうここまで来てしまったか、の感があるが、考えてみれば、47手目の2図までは想定局面の一つ。

 その後、△6五歩▲同歩△同桂の攻めを進めてゆけば、5図まで到達するのかもしれない。

 桂損だが、先手の駒を押さえているし、△5四歩~△5五歩が回れば必勝、というのが森下六段の見方。

 だが、ここで私にある手が閃いたのである。

 5図。最初は▲4五歩△3五銀▲5五桂の予定だったが、これは△4二金引▲6三桂成△8四角で大したことがない。

 ▲4五歩△3五銀▲6四歩△8七歩▲4四桂△8四角▲2五桂(6図)。

 ▲6四歩の垂らしが、森下六段の研究から抜けていた一手。角が6四に居れば、▲5五桂~▲6三桂成で角が死ぬ。

 32分、31分、21分。森下六段に連続長考が目立つようになった。

 とはいえ、△8七歩も嫌な手で、とても自信のある局面ではない。

 後手の攻めにプレッシャーをかける意味で▲4四桂。△3三金上なら▲2五桂があるので逃げられず、形の上では金得となった。

 そして、△8四角に▲2五桂。開き直りである。

(中略)

 結局、50手目で研究が外れた私が勝ち、66手目まで研究通りに進んだ森下六段が負ける、という結果となった。

 もちろん、研究することも大切だが、それは先入観を生み、局面を新しい目で見ることができなくなる、という副作用もあると思う。

 ▲6四歩と打った局面は先手が良さそうだが、こんなに楽に勝てるとは思っていなかった。少なくとも、16時5分に終わる将棋ではないはずである。

 森下六段の66手目までの指し手が、対局中の考慮によって主に指されたものであれば、▲6四歩を見て必要以上に悲観的になることもなかったのでは、という気がする。

 私自身も、最近データに頼ってしまうことが多い。勝ちはしたが、自戒の一局でもある。

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1図は、昨日の記事「角換わり腰掛け銀盛衰記」で出ていた、この当時の課題局面。

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「結局、50手目で研究が外れた私が勝ち、66手目まで研究通りに進んだ森下六段が負ける、という結果となった」

今の時代なら、コンピュータソフトが▲6四歩を指摘してくれて、3図の△6五同桂は実際の対局の場では日の目を見ることはないということになるのだろう。

これはこれで仕方がないことだが、少し寂しいような感じがする。

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一方で、コンピュータソフトを使ったとしても、

「もちろん、研究することも大切だが、それは先入観を生み、局面を新しい目で見ることができなくなる、という副作用もあると思う」

は、永遠についてまわることなのかもしれない。