将棋マガジン1992年11月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳:内藤國雄 『伸び伸びしみじみ』の効用」より。
最初に内藤國雄九段の実物を目にしたのは、10年以上もむかしになる。観戦のあいまに大広間をのぞいたら、内藤がまだ少年時代の塚田泰明八段と対局していた。
そのころ、内藤について、私は、スマートな棋士という印象をもっていた。根性とか、闘志とかを感じさせない。テレビ将棋の解説を見ても、どこかアマ抜けている。都会風のユーモアのセンスもある。
初見の内藤は、いとも気むずかしげな顔をしていた。勝負のさいちゅうだから、にやけているはずもないけれど、腹の虫をおさえかねているようにみえた。
相手の塚田少年は正座こそしているが、前傾姿勢になったり、半身になったり、いそがしく体を動かす。駒を動かすときも、ひときわモーションが大きい。
内藤は「坊や、将棋は頭と手だけ働かせればいいんや」といいたいのを我慢しているのではないか、と私は勝手に推測した。が、これは、どうもまちがっていたらしい。
当時、私は観戦記を書き始めたばかりで、棋界情報にも疎かった。その後、内藤がケタ外れの酒豪と知って、あれは、酒飲みがシラフのときにみせる、独特の顔であることに思い当たった。
だからといって、内藤がアル中というわけではない。要するに、大酒飲みほど、夜と昼の落差が大きすぎて、昼間は新進ともに戸惑いがちになるんですね。
おまけに、内藤の酒は、飲むほどにサービス精神を発揮すると聞いていた。だいたい、こういうタイプは、シラフのときはテレ性と相場が決まっている。サービス精神は、酒でも飲まなければ目を覚まさないから、どうしても昼間は不機嫌な顔にならざるをえない。
作家にも、似たような酒飲みがいる。たとえば野坂昭如氏―最近は、体をこわして酒のほうは休んでいるが、全盛期の飲みっぷりは凄まじかった。
野坂さんがまだ小説を書く前、しょっちゅう新宿の酒場で顔を合わせた。そのころは、私もけっこう飲んでいた。野坂さんの自伝風小説『新宿海溝』には、私も実名で登場して、「いつも泥のように酔っていた」と書かれている。
その酒場に、野坂さんはよく某新聞社の友人と一緒にきた。ふたりとも、かならずウイスキーの水割りをダブルで飲む。飲みはじめると、ボトルの底に穴でも開いているみたいに、ウイスキーの水位が下がっていくのがわかった。
しかも、野坂さんは一心不乱に飲んでいるわけではない。談論風発、ときには、マダムとバーテンダーをサカナに、即興で奇想天外の物語をつくったりする。ちゃんとオチまでついているので、私は、これはたいへんな才能の持ち主だ、と瞠目したものだった。
そのかわり、シラフの野坂さんは、酒場での10分の1もしゃべらない。あまりに寡黙なので、初対面の人は、機嫌を損じさせてしまったのか、と疑心暗鬼になることもある。ご当人も、それは承知しているから、雑誌の対談や座談会に出るときは、事前にアルコールを仕込んでいく。いわんや、テレビにおいておや。「あんなものは恥ずかしくて、とてもシラフじゃ出られません」といっていた。
(中略)
数年前に「週刊文春」の特別棋戦で、私は初めて内藤の将棋を観戦した。相手は「天才少年」と騒がれたころの羽生善治棋王だった。両者の初対局ということもあって、私は、いそいそと大阪の将棋会館に参上した。
対局開始は午後1時。「御上段の間」で、羽生少年が待機していると、内藤は定刻5分前に姿を現した。さっそく駒が並べられた。内藤は無言。もちろん、少年のほうから声をかけたりするはずがない。駒を並べ終わると、内容は所在なげにタバコを吸い始めた。
「御上段の間」には、この一局しかなかった。相手が関西の若手棋士なら、内藤も声をかけたろうが、初対面みたいな羽生少年には、それもままならない。観戦記者は見ず知らずときている。内藤にすれば、タバコを吸うくらいしか、間のもたせようがなかったらしい。
私はそんな内藤の横顔を眺めながら、やはり、これは酒飲みの昼間の顔だと納得がいった。サービス精神は、ちゃんと自分の出番を心得ていて、まだ眠ったままでいる。力をためているようなもので、そのかぎりにおいては、無愛想になるのもやむをえないというものだろう。
しかし、さすがに将棋の神経は眠っているどころではなかった。羽生マジックを出す余地もなく、少年は吹っ飛ばされた。羽生の棋歴のなかで、こんな負け方をした将棋は、ふたつとないかもしれない。
感想戦のしめくくりに、内藤は「きょうは若い将棋を指せました」といって、初めて頬をゆるめた。そのころには、ようやく日も傾きかけていた。
内藤は「我が師 藤内先生の思い出」で将棋ペンクラブ大賞を受賞した。「将棋世界」に載った文章なので、お読みになった方もいると思うが、師匠と弟子が酌み交わす、いい酒の話が出てくる。
内藤の師匠の藤内金吾八段は無類の酒好きで、また酒豪でもあった。師匠は内藤が四段に昇段して、一緒に酒を飲むのを心待ちにしていた。それが実現すると、なんだかんだと口実を設けては、ふたりで飲むようになった。弟子と飲むとき、師匠は、つねにご機嫌だった。そのくだりが、なんともおかしい。
<「近頃娘がわしの体のことを心配しよるんで、今日は2本ずつにしとこうな」。殊勝なことを言って始めるのだが、それを飲んでしまうと「4本では縁起が悪い。ラッキーセブンにしとこうな。銚子3本追加!」「7本では座りが悪い。1ダースといこう。5本追加!」といった調子でいつも20本以上平らげて引き揚げてくるのだった>
師匠は、この弟子をわが子のようにかわいがった。弟子のほうも早くに父親を亡くしていたので、師匠が父親代わりに現れたような想いがあった。師匠は一緒に飲みながら、「ほんとの親子やったら、ええのになあ」ともらすことがあった。その話になると、内藤は顔をほころばせて、
「ぼくは師匠を楽しませるために飲んだんですよ。”ワワーッ”って師匠の笑い声が大きくなって、”ああ、師匠楽しんでるな”思いましてね。でも、やっぱりこっちも20代になったばかりですから、しんどいときもあるんです。おんなじ話ばかり聞かされるでしょう。いまになってみると、坂田三吉さんの話なんか、もっと聞いておけばよかったと思うんですけど、当時としては、また、おんなじ話かっていやになるんです。そんなとき、最後にぼくの手を握って”ほんとの親子やったらええのになあ”って。殺し文句ですね。あれいわれると弱かった」
しかし、この師弟関係を酒の話だけですませるわけにはいかない。両者の出会いは、昭和・平成の将棋を塗り替えたといえるほどの大きな意味を持っている。
(中略)
藤内八段は昭和27年に59歳で引退した。棋士としては、これといった実績はなかった。引退後、いちど郷里の愛媛県に帰ったが、将棋界に恩返しをしたいという志を抱いて、神戸・三宮に道場を開いた。内藤は、そこに棋士のひとつの理想像をみる。
「棋士のつとめは、いい将棋を指すことと勝つことですけれども、そればかりでもないんですね。プロ野球や相撲は、いい試合をすれば、観客動員につながりますが、将棋の場合は、そうとはいえない面がある。ですから、たとえば、うちの師匠みたいに、将棋ファンのための道場をもつことも、棋士のつとめとして最高に近いもんだと思うんです」
内藤が中学1年のとき、三宮を歩いていると、「将棋指南 七段藤内金吾」という看板が目にはいった。「藤内」を「内藤」と読みまちがえたというのは、有名な話である。家に帰って、すぐ上の兄に「内藤という道場があった」と告げると、さっそく「行ってみよう」ということになった。これが入門につながった。
内藤少年は、小学生のころから詰将棋に熱中していた。縁台将棋も兄や学校の友だちと指してはいたけれど、プロの棋士になろうなどと夢にも考えたことはなかった。内藤は、そんなふしぎな巡り合わせをこういっている。
「師匠が道場を開かなかったら、また、師匠との出会いがなかったら、ぼくは100%プロになっていません。藤内という名前じゃなかったら、出会いもなかったでしょうね。あれが1年遅れても、入門はなかったと思います。ぼくは最初に13級と認定されたんです。中学1年でアマ13級じゃ、プロになるには遅すぎる。巡り合わせみたいに入門したのが、”神戸組”のもとですね。その後、ぼくがいたから、アマ名人になった若松さん(政和六段)も入門してきたようなもんですからね。その弟子が谷川浩司でしょう。つまり、藤内先生との出会いがなかったら、現在の”神戸組”は影も形もないわけですね」
奨励会には6級で入った。もともと勝負事は嫌いだったが、いやおうなく勝負を争う羽目になった。
三段までは順調に昇段したが、昇段制度が変わったこともあって、ここでやや足踏みをさせられた。内藤は、もし、子どものころからやり直すとしたら、四段からにしたいといっている。それも、四段に昇段できなかった苦しみのせいばかりではないらしい。
内藤の生家は薬局を営み、なに不自由なく育った。内藤自身は詰将棋に夢中になって、学校の勉強に身が入らなかったが、3人の兄は、いずれも大学にいっている。ごく簡単にいえば、当時の将棋指し一般にくらべて、内藤は育ちがよかった。
そのせいもあってか、やたら内藤をいびる高段棋士がいた。たとえば、記録係をしていると、夜の10時すぎに、トクホンを買ってこいという。とうぜん、もう店は閉まっている。内藤は家が薬局だから、そんな時間にトクホン程度のものを買いにこられたら、店がいい顔しないのを知っていた。
「いやですともいえんですから、店を開けてもらって買ってくると、こんどは、貼れいうんです。汚い背中を出してねえ。ずいぶん泣かされました。そのころのことは、のちのちまで悪い夢を見ましたね」
内藤が端正な棋士の代表格と目されるようになったのは、奨励会時代に格好の反面教師がいたからといえそうな気もする。
また、内藤は、もういちど棋士をやり直すとしたら、酒はほどほどにしたい、と真顔でいっている。「酒のせいで何百番も負けた。これははっきりしています」と強調する。
ひとりで黙々と飲むのが好きな人はべつにして、大方の酒飲みは、すすんで相手を求めて飲む。これを、簡単に付き合いと割り切ってしまっては、ミもフタもない。
内藤流にいえば、サービス精神で飲んでいるということになる。飲めば翌日、苦しいのはわかっているけれど、自分だけ我慢すればいいんだ、と納得づくで飲む。だから、得なことはひとつもない、と内藤はいっているが、そのあとに注釈がつく。
「でも、先立たれた人で、もういちど会いたいなと思う人は、みんな酒を飲んでますね。そういう意味では、むだじゃなかった。むだも必要といいますからね」
(中略)
内藤は色紙やサインを求められると、「伸び伸びしみじみ」と書く。その意味を著書『駒の音有情」で、つぎのように書いている。
<たとえば空高く舞う凧を想像してほしい。空へ上がろうとするのが伸び伸びで、それをしっかり支えている音がしみじみである。双方の協力がうまくいって、初めて凧は空を舞うことができる。前者のみだと糸の切れた凧になり、後者のみだと地面を這うだけの凧となる。伸び伸びは遠心力で、しみじみは求心力と考えてもよい>
なにがなんでも勝ちたいと思うのは、内藤流にいえば、伸び伸びのなせる業である。内藤の経験によれば、伸び伸びに偏したときは、大きな勝負で勝てなかった。しみじみとのバランスがとれたときは、タイトルを獲ることもできたという。
ご当人がいうのだから、そうかもしれないが、このへんが、内藤は勝負にたいする執着が薄いといわれるゆえんでもある。外野席から眺めても、内藤の将棋は、しゃにむに頑張って勝とうという泥くささとは、もっとも縁遠いように思えるのだが、内藤自身はこういっている。
「やっぱり、負けたくないですから、わるい将棋も頑張りますけど、よほど大事な勝負じゃないと、負け将棋を頑張るいうのが恥ずかしいんですね。そこまでして勝ちたいのかという、妙なねえ…。ただ、ほんのちょっとですよ。恥ずかしいと思いながら、ずっと粘っているんですからね。将棋は粘らないと勝てないですよ」
この言葉に、内藤の職人気質を垣間見ることができる。その職人の顔を、たまたま見る機会があった。
過日、新宿のホテルで、将棋ペンクラブ大賞の受賞パーティが行われた。パーティのあと、私が某酒場で飲んでいると、主賓の内藤の一行をふくめた何組かが流れてきた。顔ぶれのひとりに、音楽家の山本直純氏もいた。
やがて、にぎやかな宴の最中に、直純氏が盤と駒をもってこさせて、内藤に注文を出した。受賞作の主人公、藤内金吾八段の名前にちなんで、金を5枚つかった詰将棋をつくってもらえないかという。
内藤は、すでに相当飲んでいるはずだが、注文に応じた。まず、攻め方のと金を4枚、V字型に並べて考えはじめた。直純氏にすれば、座興に簡単なものを所望したらしいのだが、内藤は本気でつくる気になっていた。直純氏も気にして、「いずれつぎの機会にでも」といっても、内藤は「こうなったら、何時まででもやりまっせ」とやめる気配がない。
15分ほどして、内藤は「まあ、これなら」と盤上を指さした。25手詰という。詰手順を示す前に、内藤は、同席していた森信雄五段に余詰がないかどうかをたしかめた。
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近代将棋1992年11月号、池崎和記さんの「福島村日記」より。
某月某日
東京・新宿の京王プラザホテルで第4回将棋ペンクラブ大賞受賞パーティ。昨年は閉会間際に会場に到着したため拍手ができず、あいさつも聞けず、料理も食べられず、とさんざんだったので、今回は用心して早めに家を出た。
今回の大賞受賞者は内藤國雄九段(雑誌部門)で、佳作が木屋太二、国枝久美子、湯川博士、池田弘志の各氏。特別賞は加藤治郎九段と春原千秋氏。
パーティ終了後、湯川夫妻と一緒に2軒はしごしてから新宿2丁目の「あり」に行ったら、すでに内藤九段、二上九段、森信雄五段らが来ていて盛り上がっていた。詰将棋作家が三人も揃うとは珍しい。そのうち山本直純さんが入ってきて、さらににぎやかになった。
散会したのは午前4時半ごろ。いまからホテルには泊まれないので、私は森さんと二人で歌舞伎町の将棋酒場「リスボン」へ。しかし時間が遅すぎたようで、あいにく店は閉まっていた。
仕方なく喫茶店に入り、朝まで森さんとおしゃべり。こんな時間に”ヒゲおやじ”(失礼)とデートというのもさえないが、森さんも同じことを考えていたかもしれない。
空しい時間を共有しているうちに夜が明け、朝の新幹線で帰阪。車中も森さんと一緒だった。
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いつも愛想の良い人、あるいはいつも面白いことを言う人が、長い時間何もしゃべらないと、「あっ、どうしてしまったんだろう」「何かマズいことをしてしまったのかな」と気になってしまうものだ。
それとは逆に、いつも寡黙な人が機嫌が良さそうに冗談などを言えば、「あっ、どうしてしまったんだろう」「何か気を遣わせるようなことをしてしまったのかな」と、これはこれで気になってしまうもの。
人生は難しい時もある。
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「今日は2本ずつにしとこうな」のような言葉は、「30分だけ飲みに行こう」などと同様、酒飲みにとっては守られたためしがない言葉だ。
聖書の言葉を借りれば「ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」ということになる。
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「ほんとの親子やったらええのになあ」は、年齢の離れた師弟間では最上級の殺し文句だろう。
内藤國雄九段は、木村一基七段(当時)と二人で飲んだ後日、「いい男だよ、彼は。僕と同じものを飲んで最後まで付き合ってくれる。これがいいんだね。昔、藤内先生(師匠)と僕がそうだったから」と語っている。
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「棋士のつとめは、いい将棋を指すことと勝つことですけれども、そればかりでもないんですね。プロ野球や相撲は、いい試合をすれば、観客動員につながりますが、将棋の場合は、そうとはいえない面がある。ですから、たとえば、うちの師匠みたいに、将棋ファンのための道場をもつことも、棋士のつとめとして最高に近いもんだと思うんです」
これは本当に鋭い視点だ。
将棋の難しいところでもあるし、チャンスに結びつけることができる部分でもある。
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将棋ペンクラブ大賞贈呈式の後の2次会、3次会、4次会。
私が将棋ペンクラブ会員になる4年前の話だが、雰囲気がものすごく伝わってくる。
そういう意味では「あり」のような暗黙の集合場所のような店があったのは、素晴らしいことだったのだと、あらためて思う。