原田泰夫九段の講演(序盤)の再現

近代将棋1982年12月号、原田泰夫八段(当時)の「棋談あれこれ」より。

講演

 秋冷、仕事をした後の酒のうまさかな、人生の幸福を感じ
る。11月17日付で九段、11月25日付で藍綬褒章を下さるご通知、ありがたく感謝、肩書を汚さぬように界、道、盟のために尽したい。

 未知、初対面のところからの講演のご依頼がある。先約で失礼の場合もある。2月を例にすれば、行田市役所上級職員の研修会。農林省関係。小林コーセートップ幹部セミナー。神奈川県教育センター校長コース。相模台工業高校PTA。宇都宮青年館。杉並区文化祭。社会保険大学。1時間半、2時間、3時間の講義もある。内容の新鮮を心がける。

 どんな調子で何を話しているのか「原田ぶし」の序盤をご紹介したい。「颱風禍知られざる深き町」句と認めていただけるか。

三手の読み(序盤)

「盤上盤外」と致します。盤上は将棋界、将棋道、将棋連盟のこと、それ以外の社会、各界を盤外と見ます。将棋的発想で社会や人生や世界ニュースを眺め、盤上の世界ならこう考えると見たり、ブラスの面を吸収したり考え方を往復させますと現代が面白く眺められます。

 盤上の考え方では相手の立ち場に立って、相手の最善手を読む、これを「盤面をひっくり返して見る」と申します。盤を裏返しにするのではなく、相手側、向かう側に立つということです。 

 20代の青年時代から言葉を選び、言葉作ることが好きでした。選び、作った言葉を浮かべて物ごとを考えると分りやすくなります。

 大正12年生れ、数えで60、昭和12年に加藤名誉九段門下にしていただいてから45年、24年、26歳で八段に昇進してからでも33年、60年の人生、45年の棋士生活の失敗談、体験談を、いかに省略するか、まとめるか、一つにしぼるか、これは難問、あまりにもお話し申し上げたいことが多いからです。

 時間節約の場合は、意識して早口にして、あまり警戒しすぎては話しが面白くないので自然に流します。時には縦横の飛車筋に、時には稲妻型の角筋に、桂馬筋に飛んだり、香車の如く
話しが走ることがあります。

 話し上手より聞き上手と申します。この点、よろしくご賢察願います。

 原田と致しましては、皆様方約二百人の立派な指導者に、人物試験をうけている気持であります。写真よりラジオよりテレビよりも、面接して話しをきけば、その人間がどの程度か、はっきり分ると存じます。こちらは、秀才でも人格者でもございません。

 一般に将棋は娯楽、趣味と見ておられます。それで結構、将棋を楽しまれればいい。プロを棋士と申します。棋士には棋士の使命がございます。その点は時間があれば後に申します。プロ棋士の世界を勝負の世界、棋士を勝負師とも言われます。

 たしかに勝負の世界で勝てば本人はいい気分、家族は喜び、ファンは我がことのように喜んでくれます。位置が上り収入もふえます。負ければその反対、若い純心の時ほどくやしさが激しく、ほんとに泣きたくなったり、死にたくなることもありをした。

 その時その場で白黒の結着がつきますから厳しく見えます。しかし考えようによっては社会のあらゆる職業が勝負の世界であり、その日に勝負がつかないから一層奥の深い勝負とお感じになるのではないでしょうか。

 原田は勝負ごとはほとんど致しません。将棋は幼年時代に見よう見真似で覚えましてプロになり、現役時代も退役した只今でも大変好きであります。新聞棋欄、テレビ将棋、将棋の月刊誌や単行本が楽しい刺激で、突然、八段から八級に腕が落ちることはございません。

 表て芸の将棋道は別、そのほかの競輪、競馬の如き、トランプ、マージャンの如きに興味が湧かない性格であります。囲碁は本山の日本棋院から初段を頂戴していますが、活き死にも分りません。本部の理事、会長時代に日本棋院の本因坊とか名人の就位式に、10回か20回か祝辞を弁じましたので「あいさつ初段」にして下さったわけです。

 東京、千駄谷の本部で対局の場合、午前10時開始、翌朝の午前1時を過ぎることも稀ではありませんでした。50代の原田から見れば20代、30代棋士は恰度子供の如き年齢です。

 若手棋士は14時間、15時間、油汗を流して必死に戦かい、局後の反省会の感想戦も終り帰宅するかと見ればすぐには帰りません。

「さあ、したくだ、先生、マージャン覚えましたか………」ちょうど小遣いの取りごろだという。覚える意志のない者が上達する筈がない。若手諸君の楽しそうなマージャンの音をききながら、読み残しの朝刊、夕刊を眺めて帰る、性格、生き方が違うので少しもうらやましくありません。これが深夜の光景です。

 ある時期、本部のマージャンが盛んでした。マージャンを知らざる者は人間失格の如く横暴な発言もありました。「日本マージャン連盟」ではあるまいし、マージャンを知らないことも自由です。こちらもヘソ曲りかも知れません。野球は甲子園で高校選手が汗と涙にぬれる光景に感動致します。相撲やマラソンの観戦は好きですが、野球の見方はよく知りません。数年前、江川、江川とスポーツ紙に村祭りの子供の下駄のような活字が出ました。

 ドラフトとか、契約金、本部の棋士たちの大きな話題になりました。そこで「江川とかいう大型新人は、走るのか、打つのか、球を投げる名人か、どっちなんですか」身近にいた毎日新聞の名文家の加古記者が「投げるほうです」と言って大笑いされました。無知は無邪気なものです。

 勝負ごとをする代りに読書、書道、俳句の勉強をしたり、将棋界以外の人達とおつき合いに時間を使いたいわけです。世の中には勝負ごとでない趣味も沢山あります。

 正式に稽古致しましたのは長唄とギター、僅かな期間でも拙宅へ先生に来ていただき指導をうけました。中途半ばになりましたのは筋が悪いこと、時間がとれず、その道の先生に無礼になりましたのは筋が悪いこと、時間がとれず、その道の先生に無礼になりますのでやめました。

「松の緑」を舞台でうなったり……一番へたなのに令嬢、令夫人たちが稽古仲間の男が珍らしかったのか「ご立派な態度とお声で……」お世辞を言われました。一手詰を分らない入門者に「あなたは将棋の筋がいいですね」というようなものでしょう。

 第三の男、禁じられた遊びの曲が流れるとギターの先生が最後に模範を示された姿が浮かんで参ります。稽古ごと、芸ごとは長く続けなければいけません。反省しております。

 その点、拙筆ながら毎日、墨をすり、筆をもち書道の手本を開き独習しております。どうも進歩致しません。近年は複写機が普及され鉛筆、ペン習字に力を入れない傾向があります。年賀状や暑中見舞の書体を拝見して名筆に感服するのはごく僅かであります。

 マイコン、パソコン時代とか、いかに文明の利器が進歩致しましても、昔しからの基本である「読み、書き、ソロバン」を小学時代にきちんと覚えさせなければいけないと存じます。

 話しが角筋から桂馬筋に飛んだようです。

 局面を盤上に戻します。将棋は「読み」と申します。読みとは先を見て、相手の心を読むことです。覚え始めのごくごく初心者は次の一手に迷い、中級者は「三手の読み」上級有段は10手-20手の手順を読みます。

 プロの高段は次の一手を浮かべ、時には途中の読みを無意識に省略して、到達点と数十手先の完成図をいくつか描きます。そこで―

(以下次号)

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原田泰夫九段のスピーチをそのまま再現した、非常に貴重な文章。

原田九段の声、口調、発音が思い出されて、とても懐かしく感じられる。

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とはいえ、ここに載っているのは序盤も序盤。

将棋でいえばまだ10手以内の局面。

ここから、新潟のイタリア軒で見た関根金次郎十三世名人の紋付きと仙台平の姿に憧れ棋士を目指した話、加藤治郎名誉九段門下内弟子の時代、木村義雄十四世名人と一緒に行った満州慰問、は出だしとして定番。その後、将棋界の話題、世相、諸々の事柄へと話が展開される。

「原田のポン友、白樺の君 加藤博二九段、五十嵐豊一九段」「界道盟」「礼儀作法も実力のうち」「原田の話は桂馬のようにあっちへ飛んだりこっちへ飛んだり」なども定番。

毎回、よく出てくる定番の部分と、新たに挿入される話題のバランスが絶妙で、原田節は多くの人を魅了していた。

話が面白いので、どんなに話が長くなっても、皆が喜んで聞いていた。

いつもの定番の話が出てこないと、お客さんが承知してくれないほどだった。

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(以下次号)で終わっているが、翌月号に次のように書かれている。

近代将棋1983年1月号、原田泰夫八段(当時)の「棋談あれこれ」より。

 前号末尾(以下次号)は編集部が気をきかしたもの。20頁ぐらいでないと口語体での講演はおさまらない。ご寛恕を。