バンコクの広島の親分

将棋世界1980年5月号、鈴木康彦さんの文とイラスト「灘九段らとバンコックへ」より。鈴木康彦さんはアニメーターで鈴木大介八段のお父様。

 雪の成田空港を出発して8時間、バンコックのドーンムアン空港に着いたら、汗がタラタラ、タイは初夏であった。

 団長の灘九段をはじめ大内八段、相馬五段、伊藤五段、蛸島女流王将や奨励会の若手、それに「バンコック・パタヤ将棋まつりの旅」に参加した50数名は、空港で熱烈な歓迎をうけて、バンコック市内の大きなラマホテルに到着する。

 すでにパーティの準備はととのっていて、将棋連盟バンコック支部の会員の皆様との楽しい夕食パーティが終わるとすぐに対局室で同行の参加者と夜半までパチリパチリ。

 二日目はハワイより楽しいと言われているパタヤビーチに到着、ホテルの大きなプールで泳いだり、プールサイドで将棋を指すなど、くつろいだのち午後5時より将棋大会に参加する。この夜の大会では広島から参加された高木達夫六段が優勝して見事な優勝杯を獲得、同伴の奥様と娘さんも思わずニッコリ。

 三日目パタヤ海岸から10キロほど離れたコーラン島にむかい、将棋を忘れて珊瑚礁の見える海で、灘先生、大内先生、それに見事な、水着姿を披露した蛸島女流王将と一緒に泳ぐという幸運に男性陣は写真をとったり水上スクーターにのったりして、午前中に、肌はコンガリ焼けて、帰りの船にのる。

 定員80名の船はパタヤビーチの300メートル沖に着き30名乗りのボートにのりかえて海岸に向かうのだが、大内八段が「ボートと競争して泳いで海岸に向かう」と言いだして皆が心配する中を、ザブンと海岸に向かってとびこんだ。一同、驚いたり感心したりするうちに、我もワレもと泳ぎに自信のある人があとにつづき、女性の太郎良さんまでとびこんで、ボートより早くついてしまったのには、一同拍手拍手。

 楽しいうちに四日目、五日目とまたたく間に過ぎてしまったが、マンゴーやマンゴスチン、そして果物の王様ドリアンなどたべてもたべても食べ切れず、ホテルは大きいし、サービスは良いし、一生の想い出になる旅であった。

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鈴木康彦さんのイラストの一部

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バンコクがバンコックと表記されていた頃。

このような旅行企画が今の時代にあっても面白いかもしれない。

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鈴木大介八段のお父様である鈴木康彦さんは、NHK「みんなのうた」やテレビアニメなどで作画・作画監督を行っていた。

「みんなのうた」での鈴木康彦さんによる映像(NHKオンライン)

鈴木康彦さんは大内延介九段の古くからの親友で、鈴木大介八段は、「大内延介」の上と下の文字を取って「大介」と名付けられたという。

大介少年が奨励会に入るのは、この6年後のこと。

「確率で語るのは勝負の世界で最もナンセンス」鈴木大介八段が影響を受けた言葉(NHKテキストView)

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「広島から参加された高木達夫六段」とある高木達夫さんは、私とバトルロイヤル風間さんが2009年の将棋ペンクラブ大賞文芸部門優秀賞を受賞した『広島の親分』の主人公である故・高木達夫さん。

高木達夫さんは、飯干晃一著『仁義なき戦い』に名前が出てくるほどの親分(村上組二代目組長)だったが、昭和40年代前半に引退。

村上組は的屋で、昭和20年代は博徒系の岡組との激しい抗争があったが(映画では『仁義なき戦い 広島死闘篇』。岡組が村岡組、村上組が大友連合会として描かれている)、昭和30年代からの第二次広島抗争以降には関わっていない。

親分を引退した後の高木さんは、大型アマチュア大会の創設、関西将棋会館建設などの功績で、日本将棋連盟から七段を贈呈されている。

高木さんは半端ではなく将棋が大好きだったので、相手を事前に見つけておいて、皆がパタヤビーチへ行っている間もホテルで将棋を指していた可能性が高いと思う。

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やや長編ですが、『広島の親分』、お時間のある時にぜひご覧ください。

広島の親分