将棋世界1996年2月号、先崎学六段(当時)の「先崎学の気楽にいこう」より。
11月某日―本誌の取材で、竜王戦を観に博多に行く。ご存知のように、僕は、挑戦者決定戦で佐藤康光君に負けた。直後は、ええいしばらく仕事はしないぞ。とくに竜王戦関係の仕事だけは受けてやんないぞ、と思ったが、3日も寝っ転がっていたら、どうでもよくなってしまった。(明るく生きなきゃね)
待ち合わせは羽田に10時。飛行機は嫌いだが、5時間かけて『のぞみ』で行くのも楽ではない。
同行はニグノ氏。ニヒルな彼の顔色が良くない。聞けば、夜中まで飲んで、朝の7時から野球をやっていたらしい。
「ほとんど寝てません」
「ほとんどって、どのくらいですか?」
「2時間くらい―」
「僕は飛行機の中で寝れないんだけど、まさか一人だけ寝たりはしないでしょうね」
「……」
本当に寝ないのがニグノ氏の素晴らしいところである。そういえば、佐藤君も、竜王戦で僕と指した次の日、朝からゴルフをしたそうだ。タイトル戦の次の日、早朝野球に出たこともあるらしい。この人達は、いったいどういう体をしているんだ。
昼過ぎに着いた。まだ研究できるような局面ではないので、とりあえず、昼飯でも食べようということになった。
「近くで、中田君(功五段)の親父さんが、鰻屋をやってるんですが」
「……鰻ですか」
二日酔いで野球やって、飛行機の中で寝られなくて、鰻はきついわな。
「いいですよ食べなくて、ちょっと顔出すだけですから―」
タクシーで10分程で「立花」に着いた。いかにも人が好さそうな親父さんと、いかにも働き者の奥様が迎えてくれた。
「いやあ久しぶりじゃなあ、待っとったよ。まあ座りんしゃい。いつも済まんねえ、家のがお世話になって」
「いや、こちらこそ」
「いやほんとによく来てくれた。今日は1日目じゃ仕事もなかろうに。まあ飲みんしゃい」
いい終わらないうちに奥様が、ビールの大瓶を2本持って来てくださる。その瞬間のニグノ氏の顔ったら!
喋るわけにもいかず、唇をちょっとすぼめて、小さな目を見開き、首をこきざみに振って合図を送る。ニグノ氏、小さく、ため息をついた。
美味しい料理が次から次へと出てきた。う巻、うざく、蒲焼き。ニグノ氏、一つ出てくる度にため息が深くなる。
ビールに鰻、それに人情も加わっての大歓待を受けて店を後にした。
「もう何も入りません」とニグノ氏。
「なにいってるんですか、あと3時間で夕食ですよ、夕食―」
「……はあ」
夕食は、別の雑誌の仕事で来ていたカメラマンの弦巻さんなどと街に繰り出した。
弦さんは、全国どんな都市に行っても美味い店を知っている。
旅に出たら、思いきりミーハーした方が楽しいというのが、僕の考えである。博多のような街に来たら、心うきうき、胃袋もうきうき、何でも食ってやろうという気になる。
河豚。烏賊。関アジ。関サバ。さざえ。いや食った食った。何をかくそう、僕はこの日のために1週間、刺し身断ちをしたのだ。
それにしても、活き造りの魚の大きいことよ。ローマ皇帝の晩餐もかくや、と思わせるような食卓の光景だった。
ホテルへ戻ると、長谷部先生が、一人で研究されていた。心がきりりとなる。
日付が変わる頃に解散。今からラーメンを食いに行くことは、ニグノ氏には内緒にしようと思った。
(以下略)
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「同行はニグノ氏。ニヒルな彼の顔色が良くない。聞けば、夜中まで飲んで、朝の7時から野球をやっていたらしい」
ニグノ氏は、将棋世界編集部の野口健さんのこと。
普通は、夜中まで飲む人はそもそも野球などやらない人が多く、早朝野球を好きな人は夜中まで酒を飲まないし、そういう意味では野口さんは非常に珍しいケースと言えるだろう。
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この福岡行きは、第8期竜王戦七番勝負第5局の取材。
一昨日の記事 先崎学六段(当時)「佐藤さんの将棋の質が色っぽくなりましたね、はっきりと」の観戦記は、先崎六段解説、記はニグノ氏、ということになる。
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「そういえば、佐藤君も、竜王戦で僕と指した次の日、朝からゴルフをしたそうだ。タイトル戦の次の日、早朝野球に出たこともあるらしい。この人達は、いったいどういう体をしているんだ」
佐藤康光前竜王(当時)の”朝からゴルフ”は次に記事に載っている。
タイトル戦の次の日の早朝野球は、1990年の王位戦七番勝負第6局が終わった翌朝のこと。前夜、先崎四段は佐藤五段と一緒に麻雀をやっていた。
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「タクシーで10分程で「立花」に着いた。いかにも人が好さそうな親父さんと、いかにも働き者の奥様が迎えてくれた」
中田功八段がお父様について書いた素晴らしいエッセイがある。
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「いい終わらないうちに奥様が、ビールの大瓶を2本持って来てくださる。その瞬間のニグノ氏の顔ったら!」
二日酔いの時の昼食は、蕎麦などのあっさりしたものよりも、例えばロースカツ定食のような脂っこいものを食べたほうが、楽になれることが多い。
鰻攻めは、かえって良かったのではないかと思う。
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「旅に出たら、思いきりミーハーした方が楽しいというのが、僕の考えである。博多のような街に来たら、心うきうき、胃袋もうきうき、何でも食ってやろうという気になる」
「出張に行きたい都市は?」のアンケートを東京のビジネスマンにとったとしたら、札幌と福岡が二大人気都市になると思う。
私など、会社の目の前がススキノだったらいいのになあ、と強く思っていた時期があったほど。