将棋マガジン1996年5月号、駒野茂さんの「羽生七冠王知名度チェック」より。
今、”羽生善治”という名前は将棋を指す人や将棋雑誌を見ている人だけでなく、一般的に知られるようになった。テレビや新聞、情報誌などで数多く報道されたのがその要因だ。
しかし、将棋を知り、羽生七冠王の存在を以前から知っている人たちだけが、今、羽生人気から将棋ブームになった、と思っているのではなかろうか!? その疑念を解き明かすべく、将棋マガジン探検隊は、ちまたの声を聞きに旅立った!
おばあちゃんの原宿
まず最初に足を運んだのが、東京・巣鴨にある「とげぬき地蔵」。別名、おばあちゃんの原宿と呼ばれているところだ。いきなりこんな場所にくるあたりが将棋マガジンらしい。
早々に突撃!羽生七冠王がニッコリとして、カップを手にした写真を通りがかりの人に見せてみた。
「この人だれだか分かりますか?」
「なに言ってるの、この人ハブさんでしょ」
昔は妙齢だった女性が即座に嬉しそうに答えた。
「なにをする人ですか?」
「ほら、え~と、ショーギよ。7つなにか獲った人でしょう」
昔乙女の声は割と響き渡るほうで、それを聞きつけて顔見知りの人がワサワサと近づいてきた。
「あらこの人たしか?」
探検隊の持っている写真を取って、
「そうよ、ハブさんよこの人。素敵よね」
40歳ぐらい若返ったような声を出している。また違う手が伸びてきた。
「うちのマゴに似てるワ」
「そう~ぉ? うちの子どもの方が似てると思うヮ」
こんなやり取りが止めどもなく続く。こりゃ、趣旨からはずれた。逃げよう。おっと写真。クシャクシャになっていた。
有楽町で……
東京で老若男女を問わず、活気のあるところ築地。朝も早よから大勢の人たちで活気に満ちている。
築地と言えば食。仕入れだけでなく、そこにはおいしい食べ物屋がたくさんあるのだ。まずは腹ごしらえ。そば屋に入った。
店員の女性に注文のあとに写真を見せた。「この…」と言う前に、
「ハブさんですよね」
反応が早い。これは!と思い、すかさず「なにをしている人ですか?印象は?」と聞く。
「将棋指す人でしょう。私は指せないけど。新聞とかテレビで見て、すごく大きな考えを持っている感じを受けたの。なんでも包んでしまいそうな。とても言葉では表せないけどすごい人、ていう印象」
その人、写真を厨房の人たちに見せに行く。店の人も集まってきて、「ほうー!」。みんな知っていた。
築地から東銀座、有楽町のマリオン前を抜けて日比谷公園へと進路をとる。天気が良く、日差しは春の色を漂わせている。町並を歩く人々の表情も豊かだ。
ここは東銀座にある歌舞伎座。大勢の人がいる。全体を見渡すと、40歳後半以降といった人たちが開場を待っていた。
シックな装いの男性に声をかけた。
「将棋の羽生七冠王でしょ。知ってますよ、それは。私も少しですが将棋を指すので。最近、将棋の話題がテレビや新聞に載っているので以前より気にとめるようになりましたよ。将棋を指したくなる気になりましたね」
何十人か声を聞いたあと、足先を有楽町方面へ向ける。一本の直線道なのだが、進むほどに街並が変わり、人の流れも変わり、年齢層が大幅に変わる。インタビューをするにはもってこいの場所だ。
数寄屋橋交差点、ビルの手前で大勢の人たちが上を見て立ち止まっている。スワッ、UFOか!? なんだ、カラクリ時計か。でもこれが人気スポット。ここに集まる人の声を聞いてみた。
「この人(写真を見せて)知ってますか?」
「うん?ちょっと待って、今カラクリが…。うん?今のハブさん?」
「ハブさんよねぇ。だってテレビや新聞にも出ているし、畠田さんのことでも有名だし。その写真、カワイイ、ちょうだい!」
声をかけたのは20代前半のアベック。
日比谷公園近くの派出所で、警察官に写真を見せる。
「この人知ってますか?」
「分かりますが、なんで写真を持って探してるんですか?あなたの職業は?」
逆に質問された。ヤバイ。これは逃げの一手!?だ。
競馬場の内馬場
中山競馬場へ。その内馬場は公園のようになっていて、家族連れが多い。まず、小さな子どもに写真を見せた。
「……」
お母さんは、
「ハブさんでしょ。ワイドショーとかにも出てるし知ってるワ。ショーギは知らないけど。うちの子どもはまだ4歳だから、分からないでしょ」
こんなやりとりを聞きつけて、数人のお父さん、お母さんが集まってきた。
ワイワイ、ガヤガヤ。しばらく雑談が続いたが、その中の話で、
「騎手の武豊さんもすごいけど、それ以上にハブさんはすごいと思う」
これが印象に残った。
大学のキャンパスにて
3月になると、休みに入る大学は多い。サークル活動の人や、高校生らしい数人が見学でキャンパスにいるくらいだ。その人たちに突撃!
「あれ、羽生さんじゃないですか。知ってますよ。将棋を指す人ですよね。雑誌社の方ですか?ちなみに羽生さんの年収はどのくらいなんですか?すごく興味があるんです。トップの人の年収で、その世界の大きさが分かるので」
年齢、性別によって、ずいぶん見方が違うものだなと思った。
* * * * *
1996年の段階で、羽生善治七冠(当時)の知名度が非常に高かったことがわかる。
それも、顔と名前が一致している人ばかりなのだから、すごい。
おじさんっぽい、おじいさんっぽい、暗い、などのイメージで捉えられていた「将棋」の印象が一気に反転した時だった。
* * * * *
「築地と言えば食。仕入れだけでなく、そこにはおいしい食べ物屋がたくさんあるのだ。まずは腹ごしらえ。そば屋に入った」
築地市場の場内・場外を含め、寿司店、洋食店など、築地ならではの様々な選択肢がある中、そば屋に入るというところが印象的だ。
築地にしては爆発的には混んでいないだろうから、取材をしやすいという面があったのかもしれない。
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「日比谷公園近くの派出所で、警察官に写真を見せる」
たしかに、私が派出所へ行って菊池桃子さんの写真を見せたとしたら、
「分かりますが、なんで写真を持って探してるんですか?あなたの職業は?」
と言われるのはまだ良いほうで、不審者として本格的に事情聴取をされてしまうに違いない。
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この記事にはアンケート結果も載っている。
☆東京の街角で200人の人に聞きました。
羽生七冠王を知っている
- はい 90%
- いいえ 8%
- 無回答 2%
職業は?
- 将棋のプロ 78%
- 芸能人 12%
- 七冠王 10%
- 無回答 10%
印象は?
- 知的 25%
- カワイイ 20%
- 素敵 15%
- 落ち着いている 15%
- 20代とは思えない 15%
- 寝グセがある 10%
将棋を知っている?覚えてみたい?
- 知らない 45%
- 職場や友人と指す 25%
- 知っているがあまり指さない 20%
- 知らないが覚えてみたい 10%
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このアンケートの分析としては、
「羽生七冠王を知っているという人はほとんどだが、将棋を知っている、指せるとなると少数だ。結論として、今現在、羽生人気イコール将棋ブームとは言い切れないようだ」
と結ばれている。
当時はインターネットがあっても、企業内で使われるのがほとんどの時代。それ以前に、そもそも将棋に関するサイトがほとんどなかった。
羽生七冠についても将棋についても、テレビ・新聞・雑誌からだけの情報だったわけで、羽生七冠フィーバーがあっても将棋自体のブームにまで結びつくのは構造的に難しい時代だったと言える。
ただ、この時期に、棋士という職業が世の中の多くの人に知られることになったこと、将棋のイメージが「明るい」に転じたことなど、羽生七冠誕生が将棋の歴史的に果たしたプラスの効果は果てしなく大きいと思う。