中原誠十六世名人に捧ぐ

中原誠十六世名人の引退が発表された。

永世名人の引退ということでは、木村義雄十四世名人以来ということになる。

私が将棋をはじめたのが、小学3年だったか4年だったか。その頃(昭和42年頃)、親が仙台のデパートでやっていた将棋祭りに連れていってくれた。

席上対局は、仙台出身の大友昇八段(森九段、郷田九段の師匠)と塩釜出身の中原誠五段の戦いだった。中原十六世名人が20歳前後の頃。

中原誠という、若いのに物凄く将棋の強い人がいることを知った。

ちなみに、この将棋祭りには棋士の写真も展示されていた。私が最もビックリしたのは升田幸三九段の写真。長髪と髭、いかにも将棋が強そうな不気味な感じ。この時点では大山康晴名人、木村義雄名人、加藤治郎八段、花村元司八段のことは知っていたが、升田九段のことは知らない。

木村名人、大山名人のことは親に教えられた。

加藤治郎八段はNHK杯トーナメントの解説の常連だったので、倉島竹二郎氏とともに知っていた。

花村八段は、NHK杯トーナメントで何度かみて、すぐに顔を覚えてしまった。

その後、私も色気づいたりして将棋から少し離れることになるが、再び将棋を真面目にやりはじめるのが昭和46年の秋。将棋世界を初めて買った。

その頃の中原誠十六世名人は十段・棋聖・王座でA級。

大山名人と各タイトル戦で次々と激突している時期だ。王位戦、十段戦、そして名人戦。

この時代の大山-中原戦の居飛車対振飛車の戦いの数々は、ものすごく魅力的であり、勉強にもなった。今の私の棋力を支えてくれているのは、この時期の将棋世界といっても過言ではない。

そして昭和47年、中原誠十段(当時)は、A級二年目で、大山名人をフルセットで破り、初の名人位を獲得する。

私は、そのことを翌日のNHKの朝のニュースで知り、とても嬉しくなった。

宮城県出身(生まれたのは鳥取県だが)の人が名人になる、これは地元にとって非常に大きな出来事だった。

私は振飛車党で、升田、大野、大山ファンだったが、それはそれとして、中原名人が勝つのが嬉しかった。

昭和48年の3月だったか4月、塩釜で、中原名人凱旋帰郷記念将棋大会が開催された。塩釜に親戚がいて、そういう会があると知らせてくれたので、喜んで参加した。

数年前のデパートで見て以来の中原名人、オーラが出ていた。表現は変かもしれないが、宇宙の果てを見たような感じがした。

日本将棋連盟初出版本である中原名人サイン入り「将棋は決め手」も会場で買った。今でも大切にとってある。(アカシヤ書店の星野さんに、この本の貴重性がどれくらいあるのか聞いたのだが、サインは別としても、結構流通している本らしく、あまり高い値段はつかないらしい。残念)

その後、私は高校、大学、社会人になって数年間、将棋からは離れてしまうが、その間も、中原名人が防衛したと聞いては安心し、名人を奪取されたと聞けばガッカリしたりしていた。

一昨日の記事で、「私も数年前に連盟の控室へ入ったことがあったが、この時は、ポロシャツ姿の羽生名人と佐藤棋王が向かい合って検討していた。それをTシャツ姿の先崎八段がニコニコ見ている」と書いたが。これは2003年の竜王戦挑戦者決定戦、中原誠永世十段-森内俊之九段戦でのこと。

この時、中原誠永世十段は1勝2敗で惜しくも挑戦権を逃したが、打ち上げの席での楽しい話は忘れられない。

林葉直子さんのブログも更新されている→「お疲れさまでした

中原誠十六世名人と林葉直子さんの間には、いろいろとあったのかもしれないが、それは大人の男女の問題であり、周りがとやかくいう問題ではないと思う。

1998年にマスコミで騒がれる以前から、中原誠十六世名人と林葉直子さんのことを好きだった人を沢山知っているが、その人達は、事件直後も、そして今になっても、中原誠十六世名人と林葉直子さんのことを好きなままだ。

両者に直接会っている人達は、皆そうなのだ。

私が、林葉直子さんに初めてお会いしたのは2006年の将棋ペンクラブ会報の対談に関連した時だが、私も中原誠十六世名人と林葉直子さんのことは大好きだ。とにかく人柄がいい。

それはそれとして、中原誠十六世名人の今後の評論家としての活躍が、とても楽しみだ。