私が将棋を覚えたのは小学3~4年の頃だが、はじめて本格的に将棋に熱中したのが中学2年の後半から中学を卒業するまで。将棋世界を毎号読んでいた。
時期的には、升田幸三九段が、7局中5局を升田式石田流で闘った大山康晴名人との名人戦の直後から1年半の間。
この間、大山名人と中原誠十段が各タイトル戦で激突し、振飛車対居飛車の名勝負がたくさん生まれた。また、中原誠名人の誕生など歴史的な出来事もあった。
この頃、私が宝物のようにしていた本が
大山康晴「よくわかる振り飛車」(東京書店)
升田幸三「升田式石田流」(日本将棋連盟)
大野源一「大野の振飛車」(弘文社)
の三冊。
大山名人の本は、将棋世界で見た実戦とともに非常に勉強になった。
升田九段の本は、今の私に最も大きな影響を与えている。この本を読んでおけば、今の時代でも升田式石田流でそれなりの勝率をあげることができる。
大野九段の本(実戦集)は、一番多く盤に並べたかもしれない。非常に面白い本だった。三冊の中で一番の宝物だったかもしれない。
しかし勉強にはならなかった。
大野九段の指しまわしが、とても真似のできないものだったからだ。
もしかすると、プロでも模倣することのできない捌きなのだと思う。
升田九段は、1980年の著書「三間飛車の指南」(大泉書店)で、次のよう書いている。
「昔は三間飛車に限らず、振飛車戦法というものの評価が低かったものです。昔の振飛車というのは、居飛車の攻めを受けて受けて、受けまくり、居飛車の間違いを誘って勝つというのが定説だったわけです。
つまり、振った自分からは攻めず、ジッと相手の攻めを待つのみということで、消極的戦法の烙印を押され、あまり振飛車戦法を指す人はおらんかったもんです。
ですから、当時は若い者が振飛車をやろうものなら『若いのに消極的で、先行きロクなものにならん』位の酷評を受けたものです。
まあ、当時の振飛車というのは、玉を堅くしておいて、徹底的に待つだけの単純な戦法だったので、酷評されても仕方のないところもありました。
ところが、この消極的な振飛車に、積極さを取り入れて、当時振飛車なんか、とバカにしておった者をバタバタ倒し、売り出した人がおりました。
私の兄弟子で、もう故人になられましたが、大野源一九段がその人です。
この人の振飛車は絶品で、全盛時のさばきは芸術品といえるものでした。
現在の振飛車ブームの原因は大野さんです」
大野源一九段(1911年-1979年)は、東京都台東区出身。大阪の木見金治郎九段門下。A級在籍16期。1925年入門、1940年に八段になっている。
同じ木見門下の升田九段、大山名人の兄弟子にあたり、升田、大山を呼びすてにできる唯一の人物だった。
東公平「升田幸三物語」より。
「兄弟子の大野源一が入門したころは、まだ将棋だけでは生計が立たず、伏見町で『大音』といううどん屋を兼業。大野が出前持ちをしたこともあったが、この老松町では稽古先も増え、東京生まれでひょうきん者で、しかも将棋の強い大野五段がよく働いて『将棋所』を支えていた。升田は、小柄で色の黒い大野を、自伝などで『チビクロ』と呼んだりしているが、事実上の師匠である。大野の晩年まで最大の敬意を表し、親しくしていた」
広島から出てきたばかりの升田少年を、7年年長の大野五段(当時)は徹底的に鍛えた。
当初は飛車落ちでも勝てず「田舎に帰って百姓したほうがよさそうだな」と厳しいことを升田は何度も言われた。
これが大野流というか、当時の育て方だった。
うまく教え過ぎたためか、癖を覚えられてしまい、その後、大野は升田を非常な苦手とした。
同じような意味で、4歳年長の升田九段は大山名人の事実上の師匠となる。升田初段(当時)は大山少年に対し「田舎に帰って百姓したほうがよさそうだな」と何度も言っている。
「大野源一」という棋士がいなければ、升田、大山の華々しい誕生はなかったといえる。
さて、大野源一九段の振飛車、升田九段をして「芸術品」というのだから、私から見たら神業だ。
今後、飛び飛びになると思うが、大野九段の会心譜を取り上げていきたい。
「軽い捌き」とか、そういう言葉を超越した捌きばかりだ。
ちなみに、大野九段の末弟は、漫才師のあした順子・ひろしのひろし。