30年前の女流棋界

将棋年鑑1980年版より。

蛸島彰子女流王将(当時)が書いた「第11回アマ女流名人戦」。

第11回アマ女流名人戦は昭和54年5月20日、千駄ヶ谷の将棋会館に総勢54名を集めて行われた。毎年の例にたがわず名人戦と一般戦に分かれて、華やいだ雰囲気の中にも熱心な眼差しで盤をみつめ、名人戦に27名、一般戦に27名の参加者がその技を競った。参加者の中には幼稚園の先生あり、地方公務員、主婦、学生、翻訳業の方ありと、多士済々。

(中略)

それに何といっても今回特筆すべきは、出場前から大変に騒がれた、天才少女、林葉直子ちゃんの出場でした。

年齢11歳、アマチュア三、四段の力ありと言われるこの少女に会場の目が注がれたと言っても決して過言ではないでしょう。

(中略)

名人戦の結果は予想にたがわず、福岡の天才少女、林葉直子ちゃんとベテラン吉野真理さんの決勝となり、熱戦の末、林葉直子ちゃんの頭上に栄冠が輝いた。

(以下略)

11歳の天才少女の鮮烈なデビュー。

11歳で、当時のアマチュア三、四段というのは凄すぎると思う。

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1980年の将棋年鑑に載っている女流棋士は次の15名。

蛸島彰子四段、山下カズ子四段、関根紀代子三段、多田佳子二段、寺下紀子二段、森安多恵子二段、兼田睦美初段、谷川治恵初段、村山幸子初段、中瀬奈津子初段、長沢千和子初段、杉崎里子1級、佐藤寿子1級、宇治正子1級、神田真由美2級。

1980年に林葉直子2級、

1981年に中井広恵2級、

1982年に山田久美2級、

1985年に清水市代2級

が、その後に続く。

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当時の女流棋士の人数は、現在のLPSAと同じくらいだった。

女流育成会制度は1984年に発足。

1986年度以降2008年度までは、原則的に2名ずつ女流棋士が誕生する仕組みとなった。

レディースオープントーナメントが1987年度、女流王位戦が1990年度、倉敷藤花戦が1993年度から開始されるので、1986年度までは2つの棋戦だけしかなかったことになる。

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こうやって歴史を振り返ると、林葉直子さんの出現がいかにインパクトが大きかったかが、あらためてわかる。

私は1973年から1987年まで将棋とは離れていたので林葉さんの活躍をリアルタイムではほとんど見ていなかったが、当時の将棋年鑑を数年分読むと、林葉直子さんの女流棋界に対する貢献度が驚異的に高かったことを痛感させられる。

私が昔の将棋年鑑を見てそう思うくらいなのだから、リアルタイムではもっとすごい反響があったのだと思う。