羽生少年と森内少年との出会い。
近代将棋2006年6・7月号付録「羽生善治少年の全記録(初段~四段編・五段編)」より。
羽生名人が少年時代に通い続けた八王子将棋クラブの八木下征男席主の談話。
1980年7月5日~10月1日(*羽生名人9歳)
羽生君の華々しい活躍が始まったのは、この三段時代からです。
特に夏休み期間中に様々な経験を積み、とても充実した時期でした。初めての優勝(八王子将棋クラブの夏休み小中学生大会)を経験したのもこの頃でした。
他にも、藤沢さいか屋、上野松坂屋、木更津そごう、とデパートの将棋大会に積極的に参加し、それぞれの将棋小学生大会で、3位、準優勝、準優勝と大活躍しました。まだ小学4年生ですから、この記録は高く評価していいでしょう。
(中略)
三段時代の羽生君の将棋は、既に四段強の実力と言っても過言ではありませんでした。実は私もこの頃から羽生君に平手では全く勝てなくなっていました。羽生君のお母さんに奨励会入りの打診をしたのもこの夏の終わり頃でした。
(中略)
羽生君はアマチュアのままにしておくにはあまりに惜しい逸材でした。奨励会入りを打診したのもそのためです。しかし羽生君のお母さんの返事は「まだ幼いので、もう1年待ってみましょう」という返事でした。
いま考えてみると、その判断は羽生君にとってよかった気がします。たくさんの経験を積んで、ここから羽生君の素質が開花します。
(中略)
1980年10月4日~1981年10月3日(*羽生名人10歳)
羽生君の四段時代で最も印象に残っているのは、1981年1月7日に行われた第1回小田急将棋まつりの小学生大会のときのことです。
前日に行われた予選を4勝1敗(この一敗は森内俊之君)で通過し、この日はベスト32による決勝トーナメントに進みました。そこで我が八王子将棋クラブから応援団を結成して観戦にいきました。
しかし、人の将棋に応援に行くほど心臓に悪いものはありません。羽生君は、切れ味の鋭い将棋なだけに、危ない橋を平気で渡ります。もちろん本人には勝算あっての指し手ですが、観戦者は冷や冷やドキドキもので気が気ではありません。
準決勝では予選で敗れた森内君と対戦しました。この勝負を制して、ついに決勝進出、そして見事優勝しました。
(中略)
1981年8月5日に開催した第1回東京都下小学生名人戦には思い出があります。この日、森内俊之君が道場に初めて遊びにきてくれたのです。
大会前日、羽生君から「森内君を大会に連れて来てもいいですか?」と電話がありました。もちろん了解しましたが、一つだけ困ったことがありました。
この大会は東京都下小学生名人戦と謳っているように、都下(東京都の23区以外)の子供しか参加資格がありません。神奈川在住の森内君はずっと観戦するだけでとてもかわいそうなことをしてしまいました。そこで翌年から県外からの参加もオープンにしました。(*この年の優勝は羽生少年)
すると、翌年参加した森内君は決勝戦で羽生君を破り、優勝しました。この当時から羽生君と森内君はライバルでした。
(以下略)
1982年3月28日~4月3日(*羽生名人11歳)
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1982年の第7回小学生名人戦には総勢238名が参加した。この当時は県大会はなく、各都道府県から何人でも出場できた。
3月28日の予選・決勝トーナメントで、羽生少年と森内少年はベスト4に残る。
4月3日の準決勝・決勝で、羽生-森内戦の直接対決はなかったが、羽生少年は優勝、森内少年は3位となる。
羽生少年は4度目の挑戦で、ついに小学生名人の称号を獲得した。
この時のNHKテレビ解説者は、当時19歳の谷川浩司八段だった。
(この年の8月に、前述の第2回東京都下小学生名人戦で、森内少年は決勝で羽生少年を204手で破り優勝している)
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十九世名人の羽生善治名人と十八世名人の森内俊之九段、31年来のライバルの戦いが今日から始まる。