羽生善治名人の初著作「ミラクル終盤術」より、18歳の羽生五段の感じ方と日常。
[第12章]受けの筋
雨ばかり降り、じめじめとして、嫌な日は外ではスポーツは出来ませんから、室内競技の将棋を指すにはもってこいかもしれません。
先日、電車に乗っていると、隣に座っている人から話しかけられました。
その人は将棋と囲碁、両方やられる人なのですが、その人が言うには、将棋は激しいので、指していると心臓が苦しくなる。だから、比較的に穏やかな囲碁の方へ行った。
僕は成程そうかなあと思いました。将棋と囲碁で囲碁の方が人気があるのは、これも理由の一つなのかもしれません。
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電車で羽生五段に話しかけた人は、羽生五段を羽生五段と認識して話しかけたのだろう。
レジャー白書では将棋人口が囲碁人口よりも多い時代が以前から続いているが、1990年代中盤までは、将棋よりも囲碁の方が人気があるという雰囲気だった。
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私は子供の頃、有名人は電車やバスには乗らないものだと思い込んでいた。だからプロ棋士も当然、電車やバスには乗らないものだと思っていた。
しかし、大人になってくるに従って、世の中はそういうものではないということが分かってくるようになる。
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電車に乗ってビックリしたことが二度ある。
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1984年頃だったと思う。
朝、やや混んだ地下鉄に乗って間もなく、前に立っている女性がキリッと振り向いて、「この人チカンです」と私の方へ向かって指差した。
青い背広を着た男がスルスルと横歩きで車内を逃げていくのが見えた。
何も知らない周りの人が見たら、私が痴漢だと思うだろう。
その時は、奇跡的に、ホームでバッタリ会った同じ職場の女性と一緒に乗っていたので、何事もなかったかのごとく同僚の女性と世間話をすることによって、”私は痴漢ではない”という無言のメッセージを周りに送り続けたのだった。
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大学4年の4月、心の中で憧れていた女子大生と会う用事ができたのだが、彼女は「私の家に来てよ」と言う。
一度だけ、「お茶を飲んでいかない?」と言われて彼女の部屋で紅茶を飲んだことがある。
それ以上でもそれ以下でもなく、紅茶を飲んだだけ。
だから、彼女の家は知っていた。
土曜日の昼間、部屋を訪ねていく。
「わざわざ来てもらってごめんね」
彼女は洗濯をしていた。
下着のようなものが見えたので目を逸らす。
しかし、女性の下着には見えない。
私は怪訝そうな顔をしてしまったのだろう。
「あ、これ従兄弟の下着なの」
彼女の従兄弟の話は何度か聞いたことがある。
従兄弟と仲が良すぎるのではないかと感じたことは何度かあった。
その日は本を返すだけだったので、内心かなりショックを受けながら彼女の家を後にした。
それから5ヵ月後の9月の夕方、地下鉄に乗ったら、席に座っている女性が手を振ってきた。
彼女だった。
あれから連絡を取っていなかった。
「久し振り。奇遇だね」
「そうよね。あっ、紹介するわ。私の従兄弟」
彼女の隣には、彼女とお揃いのオーバーオールを着た男性が座っていた。
「ど、、、どうも、、はじめまして」
いつもハマトラな子だったのにオーバーオールでお揃い…
「これから後楽園遊園地に行くの」
隣に座っている従兄弟と言われている男性は、かなり私の顔に似ていた。
嬉しいような、何かを失ってしまったような、微妙な感情…
それから世間話をして私は乗り換えの駅で降りた。
「彼は絶対に従兄弟なんかじゃないんだ」
イソップ物語のカラスのような心境になって、自分にそう言い聞かせた。