奨励会時代の糸谷哲郎五段。
近代将棋2004年9月号、川崎大地指導棋士二段(当時)の「激闘奨励会 関西だより」より。
川崎大地指導棋士三段は森信雄七段門下で、糸谷哲郎五段の兄弟子にあたる。
兄弟子ならではの温かさに溢れる文章。
糸谷哲郎三段
小学4年生での入会から6年で三段リーグ入りを決めた。
二段以下での通算成績は170勝148敗で勝率は.534.ここ最近の新三段(村田・豊島)に比べると勝率ではかなり差がある。それもそのはずで糸谷は入会から2年間6級でひたすら負け続けた。降級点を取ること3回。降級の一局を凌ぐこと2回。対局中必敗になると泣くこと毎回。
最近ではその期間に蓄えたたくましさも目に見える。特に振り飛車に対して独特の指しまわしを開発していて、まだ名前のない(本人の中ではあるのかも)戦法は児玉七段のカニカニ銀並みの個性である。
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近代将棋2006年6月号、故・池崎和記さんの「関西つれづれ日記」より。
(B級2組順位戦最終戦の対局が終わったあと)
深夜、東西すべての結果を見届けてから、福崎九段、南九段、西川七段、平藤六段、本間五段(4月から六段)と飲みにいった。
(中略)
居酒屋に入ると、糸谷新四段の話が出て、次に”反則談義”に移った。
何年か前、糸谷君は対局中に珍妙な動作をして「反則負け」になったことがある。そのエピソードを僕が紹介したのがきっかけだ。
珍妙な動作というのは、取った駒を相手の駒台に乗せたこと。駒がはじき飛んで、偶然、相手の駒台に落ちた、というのではない。彼はなぜか、フツーに駒を置いたのだ。前代未聞の珍事だが、これ自体は反則ではないだろう。「あ、ごめん」とでも言って、自分の駒台に戻せばいいだけのことだ。
だが正直者の糸谷君はそれができなかった。時計を止めて、幹事に裁定をあおいだのである。結果的には、これが良くなかった。想定外の事態が起こって、幹事も対応に困った。対局者同士で処理してくれれば見ぬ振りもできるが、本人から言われたらいい加減な返事はできない。
「時計を止めたのか・・・」
「はい、僕が止めました」
こんなやりとりがあり、結局、これを理由に反則負けの判定が下されたのである。
局面は糸谷君が勝勢。その駒を相手に渡してもまだ優勢だった。糸谷君は大声で泣いたが、これもいまとなってはなつかしい思い出だろう。
4月から高校3年生になり、来年は関西の大学を受験するそうだが、同門の兄弟子、安用寺五段によると糸谷君は博識で、学校の成績もかなりいいらしい。ユニークなキャラクターで、将棋もかなり変わっている(対振り飛車の右玉が特に有名)から、今後が楽しみだ。
-とまあ、こんな話を僕は居酒屋でしたのだが、この反則負けのエピソードが受けて、反則談義に移っていったのだ。
(以下略)
池崎さんは、この反則負けの場面をリアルタイムで見ていた。それほど池崎さんは、時間を惜しまず関西将棋会館に詰めていたということだ。
池崎さんは別の号でもこの時のことを書いている。奨励会幹事は井上慶太八段だった。
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2007年の朝日オープン将棋選手権本戦、糸谷哲郎四段-中原誠永世十段戦観戦記でも、この時の反則負けのことが取り上げられている。
対局相手は佐藤天彦1級(当時)だったことがわかる。
この観戦記は「剣」さんによるもの。「剣」は小暮克洋さんのペンネーム。
糸谷哲郎五段の個性が強く伝わってくる名観戦記だ。
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師匠の森信雄七段が撮った糸谷新四段の写真。師匠の思いがこもっている。