村山聖五段(当時)の四角いジャングル(前編)

将棋マガジン1991年6月号、泉正樹六段(当時)の「囲いの崩し方」より。

 村山聖の強さにはビックリした。

「ハハア、終盤の力だな」なんてのは、今さら言わなくても衆目の一致するところだからペケ。

 正解は、覚えたては誰もが昼夜を問わず熱中する四角いジャングル。

 順位戦が終了した日のこと。宮田先生、私、聖君の三人が森下君にすっかり焼肉を御馳走になり、「いざ勝負」の段になって宮田先生が腰くだけ。戦闘態勢に入っての”おあずけ”は、「つらいっス」の一言に尽きる。それでも聖君は、苦しそうな体に鞭打って「麻雀さえできれば」を繰り返し”青春の主張”。

 夜の夜中、いったいどこに果たし状を投げつければいいというのか。

私「それよりも聖ちゃん、体の方は大丈夫なの」

聖「ハア、しんどいスけど麻雀が打てれば大丈夫です」

私「よし、そこまで言うなら、俺も男だ! かたっぱしから電話してやっから、まかしとけ―」

聖「あの~、せっかく打てるんなら、野本先生に教わりたいんですけど」

私「なぬ、あの史上最強の打ち手がいいだと―。大阪に帰れなくなっても知らんぞ!」

聖「ハア、どうせ僕が負けるんですから、強い人に払いたいんです」

 てな訳で、夜中の2時半に野本先生へお電話。10回以上鳴らしても出てこないので、さすがに良心というものが痛みだした。朝まで待つのが最善手と思い直し「リスボン」コース。

 それから無理矢理マスターの小滝さんをひっぱり出し、つなぎで打ってもらう状態作り成功。

 6時キッカリ、おそる恐る野本宅に。ママが出たので「緊急の事態です。パパをお願いします」と通告。

パパ「こんな目一杯打てる時間から一体なんだ。少しはおれを恐れさせる野郎をツモッて来たのか?」

私「ハイ、ブクブク肥えた浪速育ちの肉丸とかいうヤツです」

パパ「ホーホー、そうときいちゃ合点承知したぜ。後輩共、ピン札きれいきれいにチュッチュして、たたまないでまってろよ―」

 一途な願いが通じた聖君。遂に虎のエジキになる時がおとずれた。と思いきや、開始と同時に真の実力を発揮しだした。小滝さんとやってた時とは、打ち筋も迫力もまるで違うのだ。計るつもりが計られた私は、しばらくラスのオンパレード。

 敏腕パパも圧倒され、「どうもこの一週間トレーニング不足でいけねえ。でも聖ちゃん、少しは先輩達をいたわる事も必要よ」と、ゴロニャン態勢。

 そんな大先輩のご意見をまるで意に介さない聖君。なにしろ、5巡目リーチは当たり前で即刻ツモ。たまに遅い上がりだと、メンツなしのアンコばかりと、字牌and端牌だらけのヤツ。

 という訳で、8時に始めた戦いは昼を過ぎても聖君の独り舞台。

 雀歴25年と15年が、覚えて2年そこそこに粉砕される光景ほど、おそまつなものはない(トホホホ・・・)。

 順位戦を終えた後の苛酷な麻雀。なにしろ、30時間は寝てない計算になる。私の体力はすでに限界。聖君は体調万全のはずの野本先生よりも、遥かに意気軒昂で”しんどいスけど”はどこ吹く風。

 棋界最強?コンビと謳われる野本、泉が、このまま漫然と肉丸君の栄養素と化してしまうのか・・・。

 聖、大優勢を築き、来月号へ続く。

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プロ棋士の麻雀は3人麻雀が主流だが、このような話を聞くと、なぜ4人ではなく3人なのかが非常によくわかる。面子を揃える苦労が二分の一で済むのだ。

将棋界で麻雀最強と言われた丸田祐三九段や加藤博二九段を第一世代とすると、野本虎次七段(当時)は第二世代の麻雀強豪ということになる。

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丸田祐三九段の有名な逸話。

昔の麻雀牌は表が竹で出来ていた。

丸田九段は、牌の竹の模様を見ただけでその牌が何かを当てたという。

ものすごい記憶力の瞬間技。

そのような人と麻雀をやって勝てるわけがない。

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昔の軍人将棋は木でできていたので、長い間同じ駒でやっていると、駒の凹み具合、形などから、裏返してやっていても、これは大将、これは地雷、などと覚えてしまい、勝負にならないこともよくあった。

似たような話は、昔の紙製のトランプでもあった。

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私は中学生時代、一人で棋譜を並べていることが多かった。

今なら絶対にそのようなことはやらないが、40枚の駒の字体、木目を全て覚えて、毎回、それぞれの駒を同じ位置に並べるようにしていた。

つまり、初めに駒を並べる時、この歩は必ず7七の位置、この金は必ず4一の位置に置くというふうに。

私は三間飛車が好きだったので、18枚ある歩の中から一番気に入った歩を7七に置いていた。将来7筋から捌くうえで、とっかかりとなる7筋の歩は非常に愛着があるものだったからだ。

それにしても、今考えると、非常に気持ちの悪い中学生だ・・・