「名人は素手で、あーたは日本刀とダイナマイトを持ってるんだよ」

将棋マガジン1990年2月号、安部譲二さんの「負けても懲りない12番 第2番 谷川浩司名人 二枚落ち」より。

 書いたものが初めて活字になって、雑誌に載ったのが昭和58年の年末。

 そして最初の単行本「塀の中の懲りない面々」が出版されたのは、昭和61年の真夏だった。

 それ以来ずっと堅気をやっているのだが、まだ自分が作家になれたということを、時々信じられなくなって頬でも抓りたくなる時がある。

 今はそんな時も最大級の瞬間だ。

 なんと俺と盤を間において向かいあっているのは、名人谷川浩司その人なのだ。

 自分が名人と指すなんて、いくら夢見勝な俺でも、今までに一度だって考えたこともない。

 俺は馬鹿なゴロツキだったから、ほんの年端もいかない頃からいろんな空想を逞しくして来た。

 八千草薫の情人になることも、日本最強の重量級を謳われた辰巳八郎を、十回の死闘の末にナックアウトすることも、サッチモの前でコルネットを吹き鳴らして、絶望させて隠居させてしまうことだって夢に見たのだ。

 けどそんな俺なのに、名人と将棋を指すことだけは、考えも思いつきもしなかった。

 今、名人は俺の前に坐っていらっしゃる。

「ヨシ、負かしてやろう」

 俺に博打打ち、勝負人の血が甦った。

 二枚落ちという手合いは、プロの頂点に立つ名人と、府中刑務所北部第五工場の王者の一番だから、これは仕方がないし当たり前だ。

 恐れ入って指の縮んだ将棋だけは指すまい、一所懸命力一杯の将棋を指して、あわよくば勝ってみせようと、俺は博多の在の宗像神社さんと神戸の須磨寺さんに祈った。

 こんなチャンスは、そう滅多にはあるものではない。

 猛妻のチンコロ姐さんも、俺が出掛ける前に、

「あーた、ビビって恥をかくんじゃないよ。名人は素手で、あーたは日本刀とダイナマイトを持ってるんだよ」

 と激励してくれた。

 マイトで吹っ飛ばして、日本刀でコマ切れにしろと言ったのは、飛車と角行のことらしい。

「ヨシ、宗像さんも須磨寺さんも、それにチンコロ姐さんも皆見てくれ・・・」

 俺は自分の息子のような名人に、お辞儀をしながら心のなかで呟いていた。

(中略)

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作家の安部譲二さんが12人の棋士にニ枚落ちで挑戦する「負けても懲りない12番」。

2番目に登場した棋士は谷川浩司名人(当時)。

安部譲二さんは、元ヤクザの経歴を持つ作家で、1986年の「塀の中の懲りない面々」が大ヒット作となった。

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 画いていた絵図面どおりに、俺は飛車先の歩を切って3六に浮いた。

 マイトの導火線に葉巻で火を点けたようなもので。この形になったら名人を将棋会館の窓から、鳩森神社の境内まで吹っ飛ばせる。

 俺がマイトに火を点けたのを見て、名人は王様を一段上にあげた。

(中略)

 前回米長さんに負けた時は、一手ここで手抜きをしたのを咎められて、それは哀しい目に遭わせられたから、俺はシッカリと蟹囲いの中に玉を入れた。

 拳銃を持っていない相手と喧嘩しているのに、俺は用心深く防弾チョッキを着込んだようなものだ。

 本当に我ながら、いい歳を取ったと思う。

(中略)

 日本刀の角は、各道を止められて鞘に入ったままなのだが、飛車のダイナマイトは爆発して、名人の玉は7二に飛んだので俺は気負い立った。

 しかしそれにしても、なぜ角道を止められると分かっていたら▲9六歩を突いておかなかったのだろう。

(中略)

 名人は左の銀を戦場に駆けつけさせようとするのだが、そうさせては不味い。

 俺の描いた絵図面では、この銀は2二で、ずっとくすぶっていてくれなくてはいけないのだ。

 俺は仕方なく5筋の歩を突いて勝負に出たが、2二に居た名人の銀は、遂に戦場に間に合ってしまった。

 高田馬場に堀部安兵衛が駆けつけたようなものだ。

(中略)

 名人は俺から取り上げたダイナマイトを4九に投げ込んだ。 これが三十年も博打打ちをして、遂に親分と呼ばれることがなかった理由だろう。

 俺は四歩も持っているのに、歩を惜しんで▲5九金と守ったというのだから、我ながら嫌になる。

 もう自己嫌悪の巨きな結晶のようになってしまった俺だ。

 名人に負けるのはいい。血圧が極限まで昇るのもいい。たとえ死んだって構いはしない。

 けど、棋譜の残る名人との晴れの一番で、こんなシミッタレた非道い手を指したのは、どう悔やんでも悔やみ切れないことだ。

 この▲5九金と指した途端に、俺は戦意を失ってしまったのだが、これは闘志の無さを責められるようなことではない。

 辱を知る男だということなのだと、俺は咄嗟に屁理屈をつけた。

 こんな技術がなければ、とても三十年も暗黒街では生きていられなかったと思う。

(中略)

 ダイナマイトは奪い取られ、日本刀は遂に抜けずに俺は負けた。

 後から名人は、親切に一から十一まで、問題点を箇条書きにして下さる。

(中略)

 どんな世界の第一人者で、こんなに親切な方がいらっしゃるか・・・、と俺は思った。

 なんと嬉しいことだろう。

 俺は名人に、その箇条書きの下に署名をお願いした。

 額に棋譜と一緒に入れて、仕事部屋に飾ろうと思う。

(以下略)

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いろいろと調べてみると、戦後のヤクザの抗争で主に使われたのが拳銃。

日本刀は持って歩くと目立つので、使われなかったのだと思う。

ダイナマイトが使われたのは歴史的には第二次広島抗争(1960年台前半)の時だけ。相手を威嚇することが目的だったようで、死傷者は出ていない。

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実際には抗争でほとんど使われていなかったにもかかわらず、「日本刀」と「ダイナマイト」はヤクザ映画にいかにも出てきそうなイメージ。

”二枚落ちの上手は素手、下手は日本刀とダイナマイトを持っている”という表現は奥様によるものだけれども、安部譲二さんならでは自戦記だ。