人懐っこい屋敷伸之棋聖(当時)

近代将棋1997年10月号、故・団鬼六さんの鬼六面白談義「棋聖戦、終わりぬ」より。

 棋聖戦の場合は前夜祭という派手なものはなく、関係者一同の会食会とか、控え室でくつろぎと歓談会みたいなものがあるだけだったが、私はそんなものには出席せず、円山社長と二人きりで別室で土地のコンパニオン二人を呼んで道後温泉の夜を楽しんでいた。

 どうして対局前日に私が出来るだけ屋敷七段との接触を避けたかというとそれには理由がある。

 あれは第何期の棋聖戦だったか。そう58期だから随分と前になる。当時の屋敷棋聖が南芳一九段の挑戦を受けた時で屋敷はカド番に立たされていた。当時横浜にあった我が家にしょっちゅう遊びに来ていた屋敷の応援に行こうという事になって森けい二九段に相談し、何人かの女流棋士や将棋ジャーナルの編集にたずさわっていた国枝久美子などの一隊を連れて熱海の「石庭」で開催された棋聖戦への応援にかけつけた事がある。その時の立会人は高柳敏夫九段であった。

 会食会が終わってから私の部屋で雑談会が始まったが、森けい二九段や真部八段などの棋士、産経の記者、カメラマン、それに女流棋士に国枝久美子なども混じって深夜までワイワイ、ガヤガヤと酒を飲み、放談をしていたのだが、ふと気がつくと屋敷までキャッキャッと騒いでいるのである。明日、九時から重大な対局があるのにこんなにおそくまで酒盛りにつきあっていていいのだろうかとさすがに私も気になり出した。挑戦者の南芳一九段は会食のあと、早々と自室に引きこもってしまっている。重大な対局を明日に控えて隊長を整えているのは当然であって、あんたもそろそろ寝た方が、と私は屋敷に注意したのだが彼は、そうですね、といいながら、まだキャッキャッと笑って盃を置く気配がない。女連中も一人減り、二人減り、森九段・真部八段も自室へ引き揚げたのに屋敷は腰をあげる気配がなく、残っている産経の記者と競輪の話だったか、競艇の話だったか、楽しげに話こんでいるのだった。私は部屋に居残っている福本記者に、屋敷はここでこんなに飲んでいていいのでしょうかね、と不安を洩らしていた。すると福本さんは、あの子は変わっていましてね、対局の前に大酒を飲む癖があるんです、といった。対局前には何時までに就寝せよ、という規約がないからこちらも無理にしょっ引くわけにはいかないし、といいながら福本さんがようやく自室に帰るべく腰を上げると屋敷もさすがに気がとめたのか自分も自室へ引き上げる気になってフラフラと腰を上げた。

 どうもご馳走さま、といって屋敷が部屋を出て行ったので私はホッとした。すぐには寝つかれないので外へラーメンでも食べに行こうと思って私が旅館の玄関口まで出て来た時、ずんだれた宿着の裾元を両手でつかんでいる屋敷が所在なげにその辺をうろちょろしているのだ。どこへ行くんです、と屋敷が聞いてくるから、一寸、外へラーメンでも喰いに、と私が答えると、僕も喰おうかな、といって玄関に据えつけの下駄を先に履き始めるのである。仕方がないから私は屋敷を連れて外に出た。近くのラーメン屋へ入って私が注文する前に屋敷は、ビール、一本、と注文した。屋敷は明日の重大な対局の事は忘れてしまっているのではないが、その前夜を大いに楽しもうと腰を据え出している感じに見えた。こうなったら俺は知らんぞ、と私も腰を据えてかかり、ビールの追加注文をする。そして、酔っぱらい特有のうるさい調子になって屋敷に、明日は中飛車でやれ、とか、四間飛車でいけ、とか愚鈍な事ばかり並べ立てていたが、屋敷はそうですね、とか、いい方法だと思います、とかいって酔っぱらいの意見に調子を合わせてくれるのだ。

 一時間位、屋敷と二人でラーメン屋で飲み、旅館へ引き返して屋敷は自室へようやく引き揚げた。そのあと私は、石庭の露天風呂で一人浸かっていた。深夜の露天風呂で気持よく一人で唄っていると「なかなか、うまいっすね」と岩の上の方で声がする。あわてて見上げると裸のお化けみたいに屋敷が岩場に突っ立っていた。そして露天風呂に飛び込み湯をかき分けて私の傍へ近づいて来た。もう深夜も二時を過ぎていた。この男、不眠症に悩んでいるのではないかと私はふと不気味になってきた。

 かつての彼の棋聖時代に、私にとってそういう思い出があって―結果、屋敷は南芳一九段に敗退し、随分と鳴かず飛ばず時代が続いた。国枝久美子はあの時の屋敷の敗退の責任は半分、渡しにあるといういい方までした。深夜になって屋敷を旅館の外に連れ出し、ラーメン屋で飲酒したり、午前二時頃まで一緒に呑気に露天風呂に浸かるなど、屋敷の神経を疲れさす原因であって、翌日、満足に戦える筈はないというのである。ま、そういわれても仕方がないが要するに屋敷の人懐っこさとつき合いの良さが仇となったような気がするのだ。屋敷はそれ程、酒が好きな棋士ではない。みんなと飲み合っている雰囲気をこよなく愛する棋士なのである。

 無冠になってからの屋敷はちょくちょく断りもなしに私の家へ訪れた。断りもなくというのはその頃、私は将棋マガジンの企画で若手プロの棋士と飛車落番五番勝負を自宅で行なっていたのだが、そんな時、きまって屋敷は何の前ぶれもなく私の家にお化けのように現れるのである。当時の横浜の家の玄関前には柳の木が立っていて、屋敷はきまって柳の垂れ葉の中に立って、コンチワ、コンチワ。と玄関口に向かって連呼しているのである。柳の木が、お化けという仇名がついている屋敷にはぴったり似合っていて、白昼に出現した子供のお化けの感じだった。「本日、◯◯五段と対戦されると人に聞きまして応援に来ました」と屋敷はいった。若手プロの応援に来たのか、私を応援に来てくれたのかわからないが、こんなふうに風のように飄然と現れてくるのが屋敷お化け流というか、屋敷忍者流とかいうものかも知れない。私は屋敷という棋士はもともと淋しがり屋ではないかと思った。それでいて孤独感というものでもない。人間とどれ位の接触回数を求めているのか、これがわからないのである。私みたいに人が大勢集まって、アーコリャ、コリャと騒ぎたくなる性格でもない。勉強好きな棋士がいて、一日中、誰とも人と逢わず、部屋の中で将棋盤と対峙していたってその棋士は別に孤独感は感じないだろう。むしろ、そういう孤独感を欲する棋士は多いと思われるが、屋敷はどうも一人で勉強するという孤独は苦手のようだ。棋士として自分のライフ・サイクルに対応した孤独感は仕方ないとして、それ以外の孤独感には耐えられず競輪とか競艇とかざわめきの巷を恋しがるのだ。一日何時間か将棋の勉強という風に自分を枠にはめる事は出来ない。競艇に興奮する事で勝負の秘策をつかみ得る事だし、盤面に駒を並べて研究する事が将棋の強さに直結するとは考えられないわけで一見、真面目そうに見えて実は不真面目で、不真面目そうだが、やっぱり真面目な所があるという一寸、つかみにくい若手棋士である。だから彼のお化け流とか忍者流とかいうのは実に適切な仇名という感じがする。

 しかし、今回の棋聖戦で挑戦者となった屋敷はタイトル奪取のためになみなみならぬ覚悟が感じられた。

(中略)

 そして屋敷はこの棋聖戦、第四局目において三勝一敗で三浦棋聖を破り、棋聖位に返り咲いた。思えば彼は16歳で四段に昇って18歳で中原誠棋聖を破り、史上、最年少で初のタイトルを獲得し、57期では森下八段の挑戦を退け、58期の3年後に南王将に敗れて無冠となったが、勉強しない棋士なんだからこういうのが天才だとカメラマンの弦巻さんに聞いた事がある。

(中略)

 屋敷の将棋は谷川、羽生の将棋とはまた異質のものであって、性格においてもお化け的でつかみどころがないようで、これ程、率直で明るくわかりやすい性格はないように思われる。

 道後温泉、宝荘ホテルにおけるこの最後の打ち上げ式で久しぶりに屋敷の人懐っこい笑顔を見た。応援に駆けつけた人達をみても屋敷の人間性の一面が感じられる。競艇選手の大塚さん、新宿風俗産業のドン、円山社長、ぐうたら作家の私など。

 屋敷は最近、私が赤坂に開いた風俗クラブにぜひ、連れて行ってほしい、といった。好奇心旺盛な子供のような眼をしていた。アミタイツをはいた風俗嬢がのらりくらり店内を廻る毒のある店だというと、競艇みたいに何かはまりそうですね、といってお化けみたいにヒッヒッヒッと笑った。

 それはともかく屋敷さん、棋聖奪還おめでとう。逃げた女房が久しぶりに帰ってきた心境じゃないかな。

 剣聖宮本武蔵、とか棋聖天野宗歩とかはぴったりだが、棋聖屋敷伸之という呼称は何だかぴったりこない。ぴったりこなくてもぴったりくるから彼の面白いところだ。もうこの恋女房に逃げられないよう真面目に、また不真面目に人生を送ってください。悪徳的な遊びならいくらでも御指導申し上げます。人間、真面目なだけじゃもてませんからね。

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若い頃の「棋士・屋敷伸之」を語った最高の名文だと思う。

やはり団鬼六さんはすごい。

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お化けは笑わないと思うのだが、それは別としても、赤坂の店が気になる。

”毒のある店”というコピーが魅力的だ。

”温泉街のラーメン屋”という言葉も、旅愁を誘う。

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屋敷伸之九段はNHK将棋講座2013年2月号の「人間じゃなかった」というタイトルのエッセイで、2010年から将棋のため、健康のために酒を止めたことが書かれている。

また、20代のころ、勉強は1日1分だけ、競艇場に向かう時に読むスポーツ紙の詰将棋を解くだけと報道されていたが、それが事実であったことも語られている。

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たしかに、酒を飲まない日はブログの記事の書き貯めもペース良くできるのけれども、酒を飲んでしまった日は、書いている途中で寝てしまうことが多い。

私の趣味の一つがブログ記事の書き貯めだが、今日現在、書き貯め記事のストックはあまりなく、酒を飲まない日を多くしなければと思ってはいるのだが・・・

ちなみに、酒を飲みながらやった方がはかどるのは、タイトル戦の昼食予想。

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