将棋世界1990年2月号、内藤國雄九段の「懸賞詰将棋&エッセイ」より。
森安秀光九段、パッとしない状態が続いている。
私も威張れたものではないのだが、心配になってあれこれ考える。
酒の飲み過ぎだ、と観戦記に書かれているのを見たが、彼がよく勝っていた頃は今の何倍も飲んでいた。
近頃は囲碁に凝り、もっぱら碁会所通い。
ではそのせいか。いや囲碁は同じ読みの世界、それがマイナスになるとは考えられない。
こんなことを話していたら、谷川君が「囲碁の相手はお爺さんばかりじゃありませんか」と。さすがは名人。鋭いことを言う。
森安君に聞いてみた。
「そうなんですよ。年金生活のお年寄ばかり。えらいもんですなあ」と感心している。
彼が訪れる時間帯はサラリーマンが会社を終える時間とずれているからそうなんだろうが、囲碁のファンにお年寄が多いのは事実。
この点、一層若年化してきている将棋(プロもアマも)と対照的だ。
「いつも打ってもらっている相手が85歳の人でね、その人に三目置いてどうしても勝てないんですよ。自分はもういつお迎えがくるか分からない、だから早く強くなってくれとしきりに催促されるんですが勝てません」。
週に4日も通いつめて強くなれない。
「将棋の才能と囲碁の才能はやっぱり別物なのかなあ」などと言いながら、私は師匠の言葉を思い出していた。
「経営者が趣味を将棋から囲碁に乗りかえた時、その会社はもう伸びない」
師匠は、仲間の棋士達からやややっかみを込め”稽古名人”と呼ばれていた。
棋士中随一の出稽古数を誇っていたからこの言葉には重みがある。
以前このことを何かに書いたら、ある物書きさんから強い反発をくらった。
「囲碁を趣味とする立派な経営者をたくさん知っている」と。
これは意味をはき違えている。経営者に囲碁ファンが(将棋より)多いのは周知の事実で、そんなことに楯突いているのではない。将棋から碁にかわるというところにポイントがかかっているのだ。
王様がすべてという将棋には、ときにはやりきれなくなるような激しさがある。
それから逃れようとするところに気力の衰えがありはしないか・・・。
経営も勝負であると考えれば、弱気になり逃げにまわりだしたら、その会社の先は見えているといえないか。
私が中原さんで感心したのは、まだ駆け上がってきたばかりの若手の時に、大山名人相手に自玉の詰みを放置して攻めにまわり負かしてしまったことである。
こういうところに第一人者になる人の特徴がある。
ある棋士は、すばらしい才能、芸をもちながらいざという時の開き直りが出来なかったために、タイトルを手中に収めることなしに(惜しいところまではいきながら)終わってしまった。人間が正直すぎるというのか、悪くなりだすとひたすらに受けにまわり、手も足も出なくなったボクサーのように滅多打ちにされてしまうのである。
勝負ごとに何が大切か、それは闘志であり気迫である。
このことはあまりに当たり前すぎて、また素朴にも過ぎて私は言ったことも書いたこともない。
しかし、最も基本的で重要なものは、これである。
初心にかえれというのは、なによりも、初心のときの燃えるような闘志を思い出せということであろう。
—–
将棋と囲碁は似たような分野として見られがちだが、ゲーム性の部分だけを取り上げれば、先を読むということ以外は全く異質なものだ。
囲碁を極めた故・真部一男九段も、囲碁でどんなに強くなっても将棋には活きない、と書いている。
プロレスと野球ほど違うと言っても良いかもしれない。
将棋は囲碁に比べれば、明らかに激しいゲームだ。
囲碁は陣地取りという性格を帯びているが、将棋は先に相手の王様を殺した方が勝ちというルール。
自陣が焼き払われ、家族や腹心の部下が犠牲となり、自らも血みどろになり全身複雑骨折、腹からは内臓が飛び出し、頭も割れて、絶命寸前で意識も朦朧、あと数秒の命。
このような状況下でも、相手の王を一秒でも先に殺せば勝ち。それが将棋だ。
—–
「経営者が趣味を将棋から囲碁に乗りかえた時、その会社はもう伸びない」という、内藤國雄九段の師匠である故・藤内金吾八段の経験則。
決して、「経営者が趣味を将棋から囲碁に乗りかえた時、その会社はもう倒産する」と言っているわけではない。
—–
しかし、初めから囲碁が趣味だった経営者はこのような目には遭わずに済むのだから、そのような意味でも将棋は因果な趣味なのかもしれない。
とはいえ、将棋を続けていれば気力の衰えをリトマス試験紙のように感じることができるが、囲碁を続けているとそのような気力の衰えを感じることなく過ぎてしまう、という解釈も成り立つ。
どちらにしても、将棋のそのような因果なところが、たまらなく好きだ。