「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 森内俊之五段の巻」

将棋世界1991年3月号、「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 森内俊之五段の巻」より。

 ―まずは将棋との出会いを聞かせてください。

 「小学3年になった時、父が教えてくれました」

 ―お父さんとは初めどんな手合いでしたか。

 「それが・・・。凄いんですよ。ぼくの方の歩を全部と金にしてやってたんです(笑)」

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 ―それは凄いハンデですね。

 「ええ、六枚落ちなんていうもんじゃないでしょうね。ほんとは駒落ちでやるんでしょうけど、駒を落とされるのは嫌だったんです。でも、それでも初めのうちはなかなか勝てなかったんですよ」

 ―おとうさんの棋力はかなりのものだったのですか。

 「いえ、強くはなかったですよ。全然(笑)・・・。だいたい5級くらいだったと思います」

 ―将棋にはすぐ熱中したのですか。

 「教えてもらってから2ヵ月くらいたった頃、暑い盛りでしたから7月頃だったと思います。レンメイの土曜教室に行くようになりました」

 ―レンメイというと、将棋連盟のことですが。将棋を覚えて間もないのに将棋連盟があるのを知っていたのは・・・。

 「母方の祖父が、京須八段でしたから。その弟子だった工藤先生(浩平五段)に勧めてもらったんです」

 ―そうでしたね。森内さんは京須先生のお孫さんだったんですね。生まれる前に先生が亡くなられているので会ってはいないことになるけれど、やはり将棋との縁は深かったということですね。

 「その頃、他にも習い事してたんですけど、ピアノとか・・・。将棋が一番おもしろいと感じましたね」

 ―将棋のどんなところがおもしろいと思ったのでしょうか。

 「うーん・・・。覚えてないというか、今考えても・・・、分からないですね。好き嫌いって理由なんかないじゃないですか(笑)。とにかく好きになっちゃったんです」

 ―覚えてから2ヵ月で連盟の土曜教室に行ったとのことですが、そのとき何級と認定されましたか・

 「9級です」

 ―2ヵ月間で相当強くなっていたのではないですか。9級というのはどんなレベルだったんですか。

 「いえ、駒の動かし方とルールが分かれば9級なんですよ(笑)。もう、むちゃくちゃ弱かったんです。教室には松下先生(力八段・故人)、小堀先生(清一九段)、工藤先生、女流の山下さん(カズ子五段)がいて教えてくれましたが、先生達に六枚落ちでなかなか勝てませんでした。5七にと金を作られてつるし桂で詰んじゃうのがあるでしょ。(2図参照)

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 それを何回も喰いました。今でもその時の、桂を追っかけ回されて結局馬を切られて取られてしまって、それを4七に打たれてトン死した時の、頭にカアーッと血がのぼった記憶が鮮やかに残ってます(笑)。あれには怒りましたよ」

 ―勝てるようになるのにどれくらいかかりましたか。

 「はっきり覚えてませんが、3、4ヵ月くらいはかかったと思います」

(中略)

 「連盟には土曜教室の他に、日曜日にやっていた子どもスクールにも行くようになりました。そこで、おなじくらいの年頃の子に棒銀を初めてやられて、銀がニュコニョコニョコーッと出てきて、あっという間に破られちゃった時は驚きました。イヤー強い子もいるもんだというのもそうですが、それ以上に棒銀の破壊力に感動しました。で、これはいい戦法を覚えたぞというんで、さっそく土曜教室に行った時に、教室の受付をやってた中島さん(一彰・現将棋マガジン編集長)に挑戦してみたんです」 

 ―戦果はどうでしたか。

 「いつもやられてるんで今日こそはと思ってたんです。ドンドン銀を出て行ったら中島さんは三間飛車をやって来て、▲3五歩△同歩▲同銀のときバシッと△1五角(3図)と王手に出られちゃいまして激しく動揺しました。

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 この頃はまだ、王様囲うことなんか知らない頃ですから、居玉のまま戦ってて、▲2六銀と引いて平気と思ってよく見たら、銀引きには△3九飛成の王手飛車があるじゃないですか。結局、銀を只で取られちゃいました(笑)」

 ―将棋連盟の土曜教室と子どもスクールに行く他には、どんなことをしたんでしょうか。

 「将棋連盟の道場と工藤先生がやっている秋川の将棋道場、それに池尻将棋クラブに行ってました」

 ―まるで実戦一本槍という感じですね。家にいる時はどういう勉強をしていましたか。

 「将棋の勉強をしたということは、特にないですね。勉強じゃないですけど、一人将棋なんかよくやってましたね。一人でこっちとあっちの両方をもってやるというやつですね」

 ―プロ棋士に聞くと、一人将棋の経験者が多いですね。それでは将棋の本などはあまり読まなかったのですか。

 「ええ、本を読むより人と指してた方がおもしろいでしょ。本を読むのは、指したい戦法があって、それが書いてあるという場合ぐらいのものでした。でも、将棋世界とかマガジンとかはちゃんと読んでましたよ(笑)」

(中略)

 「実戦がとにかく好きだったので、将棋まつりの子ども大会には、けっこう積極的に参加しました。覚えて翌年の夏には、日本橋の東急将棋まつりや藤沢さいか屋将棋まつりとかの大会に出たんです」

 ―覚えて1年とちょっとという頃ですね。その頃の棋力はどれぐらいだったのですか。

 「2級くらいで、まだ初段はなかったと思います。周りはみんな初段以上の子ばかりですから、最初の時の予選落ちは当然として、どこでだか忘れましたが奇跡のベスト8入りができたのは嬉しかったです。将棋の内容はみんな逆転勝ちばかりでした」

 ―森内さんの将棋は、終盤の競り合いでの早くて緻密な読みが定評になっています。終盤の強さはこの頃からあったんでしょうか。

 「どうでしょうか。ただ、終盤の自信は今よりその頃の方があったかも知れませんね(笑)」

 ―それは驚きです。森内さんの終盤力はどのようにして培われたのか、読者のみなさんにそっと教えてあげて下さい。

 「特には・・・。ないですね」

 ―そ、そんな冷たいことおっしゃらずにお願いしますよ。詰将棋はどうでしたか。何冊か解いたとか、そういったことはしませんでしたか。

 「塚田(正夫名誉十段)流の詰将棋の本を解き出したことはありますけど、途中で投了しちゃいました(笑)。だって、まだ弱いのに20手以上の詰将棋を解くなんて無理ですよ。でも詰将棋や寄せの本は特に読みませんでしたけど、将棋の実戦で最後の最後の場面で詰むや詰まざるやになった時、正確に早く読むことは大切だと思っています。実戦では、まさにその局面を迎えた時にそこから読んでも負けだったら仕方がないので、その局面を迎える前の局面から読みを掘り下げてる訳ですが、問題の局面でどちらかの王様が詰むか詰まないかで、手の組み立て方が全く違って来てしまいますからね」

 ―初段に近付いている頃、得意としていた戦法はありましたか。

 「得意というか、好きな戦法は、横歩取りの△4五角戦法(4図)でしたね。

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 確か、将棋世界か何かの付録で読んで、序盤からすぐに激しい戦いになって終盤に突入するというのが気に入ったんです。△4五角に対する先手の最強の手は▲2四飛△2三歩▲7七角で、その後△8八飛成▲同角△2四歩▲1一角成△と進んで、そこで△8七銀(5図)と打つ新手が出たりしてましたよね。

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 この他にも激しくて難しい変化は山ほどありますし、後手を持って相当おもしろく戦えると思いましたので、後手になるといつも、相手が横歩を取りに来てくれないかなと、待ちどおしかったものでした」

(中略)

 「そうですね。まだまだどんな手が飛び出してくるか分からない未知の魅力を秘めた戦法だと思います。それと、これはもう少し強くなって来た頃かも知れませんが、升田式の石田流戦法も好きでよく指しました。あの戦法はハメ手が多いでしょう。それに相手がまたよく引っかかるんですよ(笑)」

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 ―ははあ、相手の飛車先の歩にちょっかいを出したりするとかの筋でうね。7図のような局面で、パクリと▲8五桂と歩を取って△同飛に▲9六角の飛車銀取りまでという・・・。

 「そうです。そうです(笑)」

 ―強くなるには苦労して勝たなければいけない。楽をして勝つようではいけない。とは、よく言われる言葉ですが、それからするとハメ手で勝つのは感心しないということにはならないんでしょうか。

 「えーっ、そんなことありませんよ。早く勝てた方がいいに決まってるじゃないですか(笑)」

(中略)

 ―最後に、読者の皆さんに将棋が強くなるためのアドバイスを一つお願いします。

 「強くなるためには、やっぱり好きであることが一番大切なんじゃないですか。だいたいボク自身がそうだったと思いますから・・・。ほら、好きこそ物の、って言うじゃないですか。ずっと好きでいられれば必ず強くなりますよ」

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少年時代の得意戦法が石田流だったというプロ棋士は多い。

佐藤康光九段、中田宏樹八段などもその代表例。

奨励会に入ってから居飛車党に転じている。

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先手の歩が全てと金に置き換わっている初形。

10兆円の資産を持つ家に一人っ子として生まれてきたような気持ちになれる局面だ。

何枚落ちに相当するのだろう。

これで風車戦法をやったら、上手にとことん嫌われること間違いなしだ。