羽生善治編集長企画「新聞将棋の楽しみかた」(後編)

近代将棋1991年1月号、湯川博士さんの「新聞将棋の楽しみかた」より。

この頃の近代将棋では、月替りで棋士が編集長を務める企画となっており、1月号の”今月の編集長”は羽生善治竜王(当時)。

羽生編集長企画の「新聞将棋の楽しみかた」。

六社連合(王位戦)

 北海道新聞、中日新聞、西日本新聞、神戸新聞、東京新聞、徳島新聞の共同体。まずは大阪の池崎和記。

☆時間のない時にこういう手をやられたら目が見えなくなるものだ。「残り二分です」と記録係の声。佐藤が突然、首を大きく振った。ああ。小さなうめき声が聞こえた。

☆扇子の音が止まった。吐息も聞こえない、顔面の紅潮もいつのまにか消えてきた。その二、三分後に指されたのが8二角成である。「これで勝ったと思った」と谷川。

 終盤の息づまる光景を歯切れよくまとめている。若手らしく全身で書いている。次はベテランの福本和生。

☆谷川の指し手を見ているうちに、二年前の王位戦を想起していた。谷川が森九段に「王位」を奪取されたあと、関係者の去った対局室に一人残って、四十枚の駒をていねいに駒袋にしまっていた。それぞれの駒の労をねぎらっていた。

☆午後五時半すぎ、風が強まったのか廊下のガラス戸のきしる音が、船の艫のように聞こえた。

☆打ち上げの宴が一段落したところでマージャンが始まった。なんと谷川と佐藤が卓をかこんで戦っている。ふたりとも笑顔でたのしんでいる。さらに驚いたことに、佐藤は深夜帰宅して、早朝の野球の試合に出場するという。

 想起する場面はお手のもの。因果描写もベテランの味。それだけに谷川・佐藤の麻雀場面は新鮮に読めた。年配の福本が驚いている所が面白い。次は中島一彰。

☆「研究会」は決して創造派ではなくむしろ修正派であるが、先手必勝を目標にありとあらゆる変化が調べつくされるのである。今や追われる立場の谷川にとって、これからは彼ら若い「研究会」との戦いだ。本局、角を早々と転換させ、銀矢倉の布陣で臨んだのは、その意味で谷川の挑戦でもある。

☆これで「谷川の切れ筋」と控え室の一致した意見。二十歳の、最年少王位誕生か、一種異様な空気が控え室に漂った。

☆「今の手、何分使いましたか」と、記録係に向かって谷川。突然の問いに、一瞬記録係がとまどうと、再び「何分ですか」。口調は柔らかいものの、谷川にしては珍しいことだ。それが「急に攻めが細くなってしまった」(局後)という谷川の心理状態の表れでもあったか。

 谷川の置かれている位置と彼の天才の心の一瞬の揺れをつかんでいて読み手を納得させる。次は鈴木良彦。

☆向こうが勝ってもニュースにならない、私が勝ったときだけ新聞に載せればいいんじゃないか」、対局開始前、にやりと笑いながら、剱持七段。

☆4九角。気持ちのいい駒音がした。詰めろ金取り。「それがやりたかったのか」剱持の声。もう半分あきらめている。

 前期順位戦で剱持が羽生を破っているのが伏線になった文を読んでニヤリとする。鈴木の筆力なら剱持をもうひとえぐりして欲しい気もする。最後は大ベテランの大期喬也。

☆観戦の席から見える右頬には、まばらにニキビが出来ている。その一つを無意識とは思うが指で押さえ、赤くなるまでもんでの長考。

 ニキビをつぶしながら棋聖を獲っちゃうんだから、嫌になる人もいるだろうね。

日本経済新聞(王座戦)

 長らく加藤治郎と高柳敏夫の両棋士だったが、木村義徳と九路人が参加、執筆陣に厚味を増した。経済専門紙のせいか、夕刊に載せているところが特徴だ。まずか木村から。

☆「7八金は気に入らなかったのですか」と筆者が問うと、「少し変だと思います」と谷川。「変と思ったら指すな」と言うなかれ。変と思っても指さざるを得ない苦しい局面に至っているのだ。

☆ひと口に好手といってもいろいろある。①すぐ効果がでる。②数手後に効果がでる。③部分的には悪手にみえるため気づきにくい。5四角は①だがプロには当然だからほめない。(略)対して3八角-3八馬は②③を兼ねている意もありこういうのはほめる。

☆畠山21才。一卵性双生児の弟のほう。(略)女流王将を迎えて複雑な心境のはず。近年の青少年は表情からはなにもうかがえないが。

 変と思っても指さざるを得ないとか、好手にも三種あってひと目のはプロはほめない、などは棋士ならではの文で面白い。また近年の青少年は表情に出ないは思わず「そうなんだ」と相槌を打ちたくなる。次は九路人。

☆本当に守勢の下段飛車なのですかと問うた谷川の1四歩に対して中原は即座に”とんでもありません!”と4六歩で答えている。若手棋士顔負けの”過激派”といわれている中原がやはり守勢主体の序盤戦に甘んじることはなかったのである。

☆古来、玉頭の歩を自ら突くなど常識はずれき棋理はずれとされてきた。それを決定したのが6六歩であり驚きの声があがったのは無理もない。(略)今の中原は常識とかパターンといったものをいっさい排除したところで考え、読もうとしているのではあるまいか。まさに名人に定跡なし。観戦中は単なる驚きだったが今は感動さえおぼえる。

 指し手の含むものを対話にしようと試みている。また手の持つ裏の意味を引き出そうと努力している点は買える。ただ中原という人は昔から常識にとらわれない指し方をする人で、「今の中原」はペンの滑りという感じもする。だがこういう部分を突っ込むのは目の付け所がいい。次はご存知又四郎。この人高柳敏夫は剣豪小説が好きでペンネームもそこからとったほど。尤も随所が剣になぞって書かれている。

☆中原の上段の構えに谷川の下段の構え。さらに中原の大上段に谷川の忍に徹した姿勢に分かれていく。中原の普通の矢倉戦にはない発意が回り回って指了図となった。

☆さよう谷川の7五歩は中原の大上段の手もとに、身体ごと突き刺さる、みごとなほどの剣の理にかなった間合いがあった。

☆角得の谷川に形勢が不利とするなら、その元凶は8八角の遊びにありとしたのが、谷川の6五歩の反撃。

 そうとうな難剣だがところどころ光って固定のファンをつくっている。昨今は呑み込みやすい文が主体だがクセのある文こそ将棋欄に生き残ってほしい。

朝日新聞(全日本プロトーナメント)

 かつては名人戦を独占していて名実ともにナンバーワンを誇っていたが、現在はノンタイトル戦と朝日アマ名人戦だ。しかし紅(東公平)を中心に記事の質がいいのはさすがだ。

 紅は文章の洗練度が高い上、サービス精神が根底にあるところがトップたるゆえんだ。陳腐な表現は絶対にしないし、次譜への次の一手や棋界ニュースの豊富な織り込みの巧みさは、できるようでいてできない芸だ。また核心を突く文も小気味がいい。

☆(中原の強引な急戦は)意識した若手対策だろうけれど、速攻に失敗して勇み足というまずい負け方が多すぎるように思える。

☆しかし名人だから順位戦の重荷もないし、あっちこっち負ければ見返しに気晴らしのヒマができる。年度末にはちゃんと帳じりをあわせてしまうだろう。

☆羽生は竜王になって以来笑顔も見せるし雑誌にも加わる。もうチャイルドではない。

☆指了図の次の一手が”谷川新手”の骨子でありノータイムで指されたのだった。お考えいただこう。

 得意は旧世代だろうが、若手情報もまめに取材して応援しているところが嬉しい。

☆(所司が中原を破って)姓は「しょし」と読む。強い五段に拍手を送る。

☆本稿締め切りを直前に高田六段が婚約したらしいと聞いた。

☆「棋士にも入玉の上手下手がありまして」と小野七段。「うまいのは中原名人、島七段、淡路八段、桐谷五段、中川四段が私の見るベストファイブです」。

 朝日には古くからの玉虫(柿沼昭治)と新加入の青(鈴木宏彦)がいる。玉虫はアマ強豪らしく自分の研究や読み筋に自信をもっているのが面白い。青は当代一の売れっ子で、手慣れて読み易い。まずは玉虫から。

☆南の長考に釣りこまれて読む。(略)さてそのあとが難しい。譜は△2四歩。福崎も意外だった。

☆△5五銀に備えて▲5七飛は絶対。

 玉虫の「・・・は絶対」は他の人には書けない表現だ。手の解説の玉虫に対し青は連盟育ちの豊富な情報量と柔らかいタッチが売り物。

☆「うどんにご飯とおかずをつけて五百円。安くてうまいところがあるんですわ」と野田。この気安さと温かさが関西流である。

☆見た目の印象と違って神吉の将棋は序盤に神経を使った繊細な将棋である。その序盤で自分のペースに持ち込めなかったことが、神吉の最大の敗因だろう。

(この期間、紅、青、玉虫、紅、青、紅と掲載。社員記者の牧風は掲載なしだった

〔まとめ〕

 さて手に入りやすい新聞に限って読んでみたが、通読すると観戦記者の本当の味がわかってくる。一日や二日読んだだけでは、手の解説ばかりでつまらない人だなあと思ったものも、通して読むと時々光る文に出会って嬉しくなる。反対に無難にまとまっていても、いくら読んでもずっと平坦な人もいる。強いのは自分の文体を持っている人で、内容よりもその文体を楽しむファンがつくのである。文章の楽しみ方はいろいろですので、参考になれば幸い。他の新聞はまた次の機会に譲ります。

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近代将棋1991年1月号、故・田辺忠幸さんの「将棋界 高みの見物」より。

 新聞の観戦記を切り抜いて保存するようになってから四十年にもなるが、スクラップブックに張るともう安心して、ろくに読まなくなってしまう。

 それでも、つい目に止まるのは、棋士の書く観戦記である。文体や表現がまことに個性豊かで、すこぶる面白い。

 河口俊彦六段は書く方もプロだから別格として、興味があるのは山本武雄八段(陣太鼓)、高柳敏夫八段(又四郎)、木村義徳八段らの文章で、それぞれ独特の味がある。

 山本八段の場合は「です」「ます」調の文体で、息が長く、一つの文がなかなか終わらない。かつては「イスカのハシの食い違い」「取ることかなわぬ魚屋の猫」などの慣用句を駆使して、鳴らしたものだ。

 高柳八段は指し手の奥に潜む心理状態を、消費時間にこだわりつつ、一風変わった表現で描き出す。文頭に「さよう」を多用するのが癖で、一譜に二度出てくることもある。それを見つけると、なぜかうれしくなりニヤリとしてしまう。

 木村八段の文章の特徴は名詞で終わる体言止めが多いことだ。従って一つの文が短い。限られた字数で多くの情報を処理しようと思えば、どうしても動詞を省いた体言止めが多くなる。この体言止めをうまく使うと歯切れのよい文章になる。木村流の慣用語としては文頭の「よって」がある。

 そこへいくと、私のような新聞記者上がりの書く観戦記は、整然としているけども個性がなく、平均的で、面白みがない。常用漢字や、語句の使い方など細かいことばかりこだわってしまう。もっと自由奔放に、大胆に観戦記を書きたいと願っているのだが・・・。

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まさしく百花繚乱。

現代版も読んでみたいし、明治から現代に至るまでのそれぞれの観戦記者らしさが出ている観戦記ダイジェスト・トピックスも読んでみたい。

資料さえ揃っていれば、このブログでやってみたいようなことではあるが、取り掛かったら200年はかかりそうなことなので、夢のまた夢。