羽生善治竜王(当時)「でかしていませんね」

棋譜の解説が主体だが、非常にわかりやすく、なおかつ対局者の心理や考えていたことが見事に描かれている観戦記。

将棋世界2003年4月号、片山良三さんの第52期王将戦七番勝負第3局(佐藤康光王将-羽生善治竜王)観戦記「幻の妙手」より。

 角換わり腰掛け銀の先後同型。かれこれ40年以上も昔に、升田幸三と木村義雄が、盤外での激しい舌戦を交えながら才能を高さを競い合ったレトロな戦型だ。

 トッププロが採用してもアマチュア間では決して流行しない将棋の典型でもある。これを指しこなすには特有の鋭利な感覚が必要なうえ、文章では説明しきれない細かい味や、一気に命の取り合いになりかねない危険な変化を自力で読んで行かないと、前にも後ろにも進めない危険な戦型だからだ。

 いつの間にかプロ間でも指されなくなったのは、なにか一応の結論が出たからなのだろうと思っていたがそうではなかった。谷川浩司王位によると「後手が十分に戦える変化が数多く存在するらしいということになって、先手がこの戦型を敬遠しだした」からなのだという。

 そういうホコリを被った作戦を佐藤王将が引き出しの奥から引っ張り出してきたわけだから、羽生竜王も警戒心を持って一手一手に慎重に時間をかけながら追随した。「後手にも楽しみが多い形」なのだから、避ける理由はまったくないわけだが、ほかでもない、シリーズの前のインタビューで「試してみたい手がいくつかあります」と宣言している佐藤が指しているのだから、どこかで新しい手が飛んでくるのは間違いない。先人が極めつくしたと言われる戦型のどこに。「試してみたい手」を温めているのだろうか。

 大昔の升田-木村戦のような、指し手以外の言葉のやりとりで相手を挑発するシーンは現代のタイトル戦では絶対に見られないが、盤面には1日目の昼休み前から張り詰めたような緊張感があった。

(中略)

 ▲2四歩から、単に飛車先の歩を交換しただけでジッと手を渡したのが佐藤の趣向。

(中略)

貴重な手番を得た後手は、当然のように△6五歩から△7五歩と反撃を開始する。データベースによると、3図の△7五歩まで進んだ例は僅かに7局。控え室で進行をながめていた谷川王位が、ここでボソッとつぶやいた。

「この局面が後手有望ということになって、単に▲2四歩と交換する手がすたれてしまったんですけどね……」

 最後にこの局面が現れたのは平成5年の郷田真隆-谷川浩司の棋聖戦第4局でのこと。谷川王位のつぶやきにリアリティーを感じたのは、中身の濃い実戦を経験しているからだったのだ。

(中略)

 その後10年間、この局面が出現しなかったというのは、大多数のプロの感覚が、「先手が好んで持ち込むべき局面ではない」と判断したからに違いない。しかし、佐藤王将はここに「以前から指してみたかった手」を温めていた。ここまで、すべては先手の佐藤の主導で運んできたことがわかる。

3図以下の指し手
▲6四角(4図)

 はやる気持ちを鎮めるためと、構想をもう一度確かめるために69分の時間を割いて、佐藤王将は▲6四角と狭い所にねじ込むように持ち駒の角を投資した。

「あまり見かけない角」と谷川王位が言う。得意のデータベースに頼ってみると、やはり「該当なし」の答え。堂々たる新手だった。

 ここで羽生竜王が動かなくなった。封じ手時刻の10分ほど前に、記録係の山本真也四段に「図面を書いてください」と、次の手を封じる意思を示したものの、いざその時刻(午後6時)を告げられると、封じるどころか逆に怖い顔になって考え込み、頭をかきむしる始末だ。

(中略)

 結局、羽生竜王が封じ手を宣言したのは6時31分のこと。101分という消費時間が記録されたわけだが、実はこの将棋に関しては驚くほどの長考ではなかったのである。

(中略)

4図以下の指し手
△6三金▲7五角△6五銀(5図)

 羽生竜王が身をよじり、頭をかきむしった末に決断した封じ手は、△6三金だった。この手には「味が悪い形なので、できれば上がりたくなかった」という感想がある。

 一番指したかったのは△8四角と対抗する手だったそうだが、▲6六銀△6三歩▲7五角△同角▲同銀△6五桂▲6六銀△6四角▲5九角(参考2図)と進んで、「でかしていませんね」と羽生竜王。これが一本道の変化とも思えないのだが、二人の感想はピッタリ一致している。

 でかしていない、というのは、動いたわりには成果が上がっていないという意味。負担になっている桂は、△7七歩と打ち込めば解消できそうだが、▲同桂△同桂成▲同銀と応じられて、そのあとにパッとした手がない。封じ手の時刻に羽生竜王が頭をかきむしったのは、この変化の打開に苦吟した瞬間だったような気がする。

 2日目は、たった5分の考慮の▲7五角から始まった。もちろん、佐藤王将の注文通りの展開。この角は後手の応手によって、6六にも引けるし、9七に一旦退避したのちに8八から敵陣を睨むこともありえる。この将棋の命運を賭けた角が輝いて見えた場面だが、佐藤は局後の感想戦で「矢印のような角で……」と卑下した。わかるような、わからないような微妙な表現。この新手が、このあと他の棋士の対局で採用されるかどうか、不安を感じたのかもしれない。

 羽生の△6五銀が意表の勝負手。中央で押し問答をしたいのなら△6五桂が普通の感覚で、この銀取りに例えば▲6八銀とでも逃げるようなら小林九段推薦の△7三角で主導権があっさり後手に移る。

 控え室では、しばらくの間△6五銀の謎が解けなかったが、誰かが△6五桂には▲2二歩(参考3図)があることを発見して、佐藤王将の構想と、羽生竜王の苦吟の理由がやっとわかった。

 △2二同玉は▲6六角が直射日光で受けきれないし、だからといって△2二同金の超悪形に甘んじる気にもなれない。

 感想戦で示された変化は、▲2二歩に手抜きで△7七桂成と攻め合い、▲2一歩成△同玉▲7七桂△3六銀▲4九桂△7三角と進む激しいものだったが、▲6四歩△同金▲6五桂打(参考4図)で先手有利という結論になった。

 佐藤王将の▲6四角には、こんな恐ろしい狙いが秘められていたのだ。

5図以下の指し手
▲4五銀△同銀▲同桂△4四銀(6図)

 佐藤王将が動かなくなった。

 桂が進む道(6五)に銀が出てきたのだから、これを素直に取る手はなく、先手だけすでに3五に歩が進んでいるのだから、同じようでも▲4五銀とすれ違いに銀をぶつけて、こっちの方が格段の迫力がある。本命は当然その手で、気が早い控え室では早くも「佐藤優勢!」の声があがった。

 佐藤王将も、たしかな手応えを感じるからこそ熟慮に沈んだわけだ。ここは極端に言えば詰みまで読める局面で、この時点で277分、4時間37分を残していた王将は、最後まで読み切ってやろうと意気込んだのだと想像する。

 勝敗至上主義者に言わせれば「▲4五銀に最善手の確信を感じた時点でそう指すべきで、相手の応手によって、その時点でまた最善手を探るのが正しい」となるのかもしれないが、トップ棋士はそうした怠惰な考え方に妥協しない。チャンスボールは、その時点ですべてを読み切ったうえで、正確に叩きたい欲求にかられるのだ。だから、困ったときに長考するトッププロはいない。ここぞというときに、じっくり腰を落とすのだ。

 しかし、213分、3時間33分はあまりにも長かった。本線は▲4五銀だったが、わき道の「▲6四歩にもひかれるものがありました」と、王将は正直に言った。以下△7四金▲6三歩成△7五金▲7三と△9二飛と進むのが変化の一端だが、はっきりと先手よしというわけではなさそうという。このルートの変化の枝葉、本線の幹と枝葉を合わせて、佐藤王将は100手どころか、その何倍もの手を読んだはずだ。それでも決定的な差をつけることができなかったのが、あるいは誤算だったかもしれない。

 驚いたのは、公開対局に訪れた一般のファンだったろう。昼休みをはさんで、4時間半も、局面が一手も動かないままだったのだから。別棟で中倉彰子女流初段をパートナーとして大盤解説に励んでいた田中寅彦九段も、「これだけ盤面が動かないと、さすがにしゃべることがなくなって、何度か休憩を取らさせてもらいました」と苦笑を隠さなかった。

 本筋はやはり▲4五銀。一緒に読み耽っていた羽生竜王は、取って△4四銀と打ち直す一手と読んでいたが、それでも29分、32分と確認に時間を使った。「完全に利かされで、味が悪い」銀打ち。封じ手△6三金の感触の悪さをここまでひきずっており、形勢に自信が持てないでいたらしい。しかし、実際にはほとんど差がついていない局面なのだった。

6図以下の指し手
▲2四歩△同歩▲6四歩△7四金▲9七角△8六歩▲同角△5五角(7図)

▲2四歩とひとつは味をつける。これはプロならひと目で浮かぶ筋で、絶対に悪い手にならないタイプの手なのだ。

 しかし、直後の▲6四歩は、もう後戻りができない流れを作ってしまった問題の一手だった。羽生竜王に△7四金と手に乗られ、▲9七角の退避(これでも▲6三歩成が残っているので、普通なら後の先という手)に△8六歩▲同角△5五角と、主導権を奪われてしまったからだ。

「羽生さんの左翼の2枚の金銀にはそこで遊んでおいてもらおうと思っていたんですが……」と、王将の悔恨の声。金を直接刺激する▲6四歩は、うまそうに見えて中身には猛毒が含まれている、禁断の果実だったのだ。

 ▲6四歩ではもう一手、▲2三歩と損のない手を指して、相手にその対策を悩んでもらうべきだった。対して△4五銀と桂を外すのは、▲6四銀△同金▲同角△6一桂(参考6図)で「ギリギリ耐えていそう」(佐藤)だが、羽生は「その桂を打つのでは自信がない」と言って、以下▲2四飛△3三銀▲2九飛△2四歩▲6三金という順を示した。

 △6一桂と▲6三金はどっちもどっちの形だが、これなら先手の角筋が攻防に威張っている分、リードしている感がある。

 佐藤が▲2三歩を打ちきれなかったのは、△同金とはらわれる手に成算が持てなかったことにも理由があった。

 続いて▲2五歩△同歩と細工をし、▲6四銀と浴びせる手にはかなりの迫力があるのだが、△7四金とかわすのが最善の受けで相当に難解なのだ。

 以下▲7三銀成△同金▲3六桂△4五銀▲5三角成△4二銀▲7一馬△8四飛▲6二馬△5五角▲2五飛△2四歩▲同桂△2二玉(参考7図)が、両対局者が感想戦で知恵を絞って出した「難しい」の結論。

 佐藤王将は例の213分の長考の時点でこの局面は描いていたのだが、このあと、▲1二桂成△同香▲2四歩△同金▲同飛△2三歩と受け止められて難局という判断をしていたのだという。

 感想戦のやり取りを静かに見ていた谷川王位が、初めてそっと口を開いた。

「(参考7図で)▲6四歩と垂らしておくのでは手になりませんか」

 この遠慮がちな一言で、結論がひっくり返った。△6四同角は▲4四馬がうるさいし、飛や金でこの歩を払うことはできない。△3三桂▲7三馬△2五桂▲8四馬と取り合うのでは、「いくらでも両取りがかかりそうで、もちそうにありませんね」と羽生竜王。佐藤王将の213分の長考の内容の結びに、この▲6四歩の妙手まで浮かんでいれば、この将棋は王将の会心譜となっていたかもしれなかった。

7図以下の指し手
▲4八飛△4七歩▲同飛△4六歩▲2七飛△8五金▲6三歩成△8六金▲同歩△3六角(8図)

 勝負所で流れが急変した将棋で、しかも長考が実らなかった佐藤王将には、容赦ない秒読みの声も迫っている。

 △5五角で制空権を奪った羽生竜王は、ソツのない手順で飛車を封じ込め、お荷物になるかもしれなかった金で角をもぎ取り、その角を飛金両取りに放って、あっさりと勝勢を確保してしまった。佐藤王将としては、呆然とする暇もないほどの転落劇だった。

 以下は、この二人のレベルなら、ただ終局までの儀式を執り行っただけという平易な手順。難しい変化や、逆転の可能性のある局面は二度と現れなかった。

8図以下の指し手
▲7三と△同角▲2四飛△2三歩▲4三桂△2二玉▲3一銀△同金▲3四飛△3二金▲2四歩△3三銀打▲同桂成△同銀▲4四銀△3四銀▲同歩△5八角成▲2三歩成△同金▲2四歩△3九飛▲8八玉△2四金▲3五銀打△6六桂▲2四銀△7八桂成▲同玉△6九馬 (投了図) 
 まで、106手で羽生竜王の勝ち

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棋譜解説主体の観戦記は読みづらくなりがちだが、片山良三さんのこの観戦記は、その手が指された意味、狙い、感触が理解できる潤いのあるものとなっている。

また、この対局の内容も奥が深い。

通常ならエピソードを多く取り入れる片山さん(元・銀遊子)が、棋譜解説主体の観戦記にしたのもそのような背景があったからだろう。

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羽生善治竜王(当時)の「でかしていませんね」。

「でかした」という言葉は日常生活においてあまり使われる言葉ではないと思うが、さらにその否定形の「でかしていない」はほとんど使われることのない言葉だ。

そういった意味もあって、非常に新鮮な響きに感じられる。

森信雄七段の「冴えんな」とも似たニュアンスだが、「でかしていない」はあくまで効果がなかったケースに使われるのに対して、「冴えんな」は悪い効果が出た場合にも使われるわけで、「でかしていない」の方がより限定的だと言える。

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佐藤康光王将(当時)の「矢印のような角で……」は、一瞬気持ちがわかりそうになるが、よく考えてみると図形的に角の動き・働きと矢印を結びつけて考えるのがなかなか難しいことに気が付く。

片山さんが書かれているように、わかるような、わからないような微妙な表現。

佐藤康光王将の頭の中で描かれている光景が、そのまま言葉として出てきたのだろう。貴重な言葉だ。

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谷川浩司王位(当時)が指摘した絶妙手▲6四歩。

「焦点の歩に好手あり」は、心に刻むべき実戦的格言だと思う。