藤井猛四段(当時)「いや、少数派でありたいですね。いつもいつも相矢倉だ、では将棋ファンはうんざりでしょう」

1990年代前半、振り飛車党にとっての冬の時代に振り飛車復興の狼煙を上げた棋士たち。

将棋世界1992年10月号、奥山紅樹さんの「棋士に関する12章 『少数派』」より。

 藤井猛(21歳、四段)が飛車を振るようになったそもそもは、大内延介という強烈な個性との出会いだ。直接会ったのではない。TV対局で大内将棋を見、大内著『大内流穴熊実戦譜』を読んだのである。

 大さばきと切りちがえの将棋に藤井は魅せられた。いらい、振り続ける。

 昨年4月、棋士としてデビュー。59戦41勝。ほぼ7割の勝率で2年目を迎えている。41勝の勝ち星のうち、32勝を振り飛車でものにした。C級2組の順位戦は10局中7局を「振った」。

 「相手の戦法?・・・イビアナと左美濃が半分。最近は急戦で来る棋士も増えてきたようええす」

 「イビアナというのは、とどのつまり振り飛車に対する嫌がらせが本音ですね・・・イビアナ後手番の場合に、駒を繰りかえて千日手ねらいにくる場合もあります」

 では、嫌がらせを相手に、7割の勝率を挙げる方法は?

  「居飛車穴熊には銀冠にする事が多い。9筋の歩をのばし、△7三桂ハネからハシ攻めをねらう。悪くなっても、ハシに手がつけば逆転勝ちのあやが出て来ますから」

 ふむふむ。で左ミノには?

 「企業秘密ですから、本当のことは言えない」

 少数派であることに淋しくはない?

 「いや、少数派でありたいですね。いつもいつも相矢倉だ、では将棋ファンはうんざりでしょう」

 藤井は言う。現代は「研究する振り飛車の幕開け」であると。

 後手の左銀を、3二から4三へ上げるタイミング。いつ△4三銀と上がれば、また3二のままなら、どのような終盤のパターンになりやすいか。

 また玉形。早くに▲3八銀と上がり、玉を4八~3九へと移す。3九に玉を置いたままの方が良いのは、どのような序盤パターンにおいてか。▲2八玉と早くに納まれば、相手は何に神経を使い、また使わないか・・・。

 数少ない実戦例をもとに、少数派ヤセガマンの研究が続く―。

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藤井システムが誕生するのは、この時から3年後の1995年のことになる。

第1号局は12月に行われたB級2組順位戦、対井上慶太六段(当時)戦。

1図は、藤井猛六段が▲2五桂から仕掛けたところ。

△2四角あるいは△4二角と逃げたいところだが、そうすると▲6五歩の後の▲5五角の王手が受けづらいため、後手は△4四角と辛抱する。

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2図は、決め手の▲4五角打ち(1二香取りと、▲6三歩成からの6筋突破+2枚替え、の両方の狙い)。

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この第1号局は、47手で藤井猛六段が快勝している。

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振り飛車と居飛車の両方が混じったような感覚。

藤井システムは、私のような昭和の振り飛車党には到底指しこなせない戦型だ。

というか、私の場合は石田流、向飛車、三間飛車しか指し慣れていないので、そもそも四間飛車をうまく指せない・・・