月刊宝石2002年10月号、湯川恵子さんの「将棋・ワンダーランド」より。
名人戦は挑戦者の森内八段が2連勝のスタート。A級順位戦の結果は順当だったなぁと思えるが、三浦弘行八段(28才)が残留できたことは解説したい。
順位が10名中最下位だし成績も7回戦終了時での残留の可能性は僅か32分の1だった。
50代さえ皆無の中で頑張り続けた加藤一二三九段(62才)も危機。対局中の奇癖と最終局に強いことも有名だ。この二人が当たった最終9回戦。勝ってもまだ他力という状況だった。
四間飛車穴熊の三浦八段が急に玉頭戦にして一気に終盤。決め手は図の次の1手だった。
なんと▲3七桂。
以下△同銀不成▲5四銀△5五玉▲3七銀△5七歩成▲6六銀……4手後に終局。穴熊の桂が動く時はたいがいパンツ脱がされちゃった按配でして、攻めに使う光景は珍しい。
終局は午後11時29分。約1時間半後に先崎・羽生戦を羽生が勝って三浦残留と決まった。
棋界のパーティでよく見かけていたが、いつもひょいと近くへ来て……私の夫にお辞儀し、黙って去る。夫は貧乏なフリーの物書き、棋士に表立って礼などされる事はまずない人間だ。三浦八段は何か独特の価値観ある人に違いない。
棋聖就位式も思い出す。平成八年。あの羽生”七冠”を最初に切り崩した棋士だ。群馬県から観光バスで大勢ファンが駆けつけた。祝辞を述べた女性は政治家の越智通雄氏の夫人。
「父が大変お世話になった方のお孫さんが、こんなに素晴らしい活躍をなさって……」
かつて群馬県群馬郡群馬町に仲いい秀才コンビがいた。片や政治家、片や医者になっても親交が続いた。福田赳夫元総理と三浦八段のお祖父さん……。
先日足利市へ週刊誌の仕事で同行した。キリリと整った眉、凛々しい若武者という感じだ。宴会で延々続いた質問責めも親身になって答え続けた。順位戦最終局で盤外戦術に悩まされましたか? の質問も出た。
「他の棋士からいろいろ聞いてはいましたけど、僕自身はそんなイヤな気はしませんでした」
それどころか、当日、知り合いの記者が目撃している。
「三浦八段がロビーの所へ出てきて、なんか必死で笑いを噛み殺していたんだよなぁ」
大物だ! この若武者いつか将軍になるぞ。鑁阿(ばんな)寺で見た足利氏第11代将軍義澄公と眉の形がそっくりだもの。 実は前期はプロ入り以来10年間で最悪の勝率。当人は嘆いていたが、その締めくくりがA級保持だったのである。
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三浦弘行八段(当時)がA級1年目の時の順位戦最終局。
前年のA級順位戦最終局で、加藤一二三九段は対局前に突然、「電気ストーブを買ってきてください」と職員に言って、電気ストーブを用意させた経緯があった。(そして、加藤一二三九段は森下卓八段に勝っている)
前年のことがあったので、この時はあらかじめ加藤一二三九段側に電気ストーブが置かれてあった。
すると、寒がりの三浦弘行八段がそれを見て、「ボクにもください」。
しばらくして三浦八段の側にも電気ストーブが置かれると、加藤一二三九段はそのストーブをズズーッと遠くに押しやってしまう・・・
三浦八段が笑いを必死に耐えていたのは、このことだった。
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三浦九段のお祖父様と故・福田赳夫首相は従兄弟同士。
ちなみに、三浦弘行九段と郷田真隆九段の共通点の一つは、母方の祖父が医師であったことだ。
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足利義澄を調べてみた。
湯川恵子さんが見た鑁阿寺に所蔵されている像を発見することはできなかったが、肖像画や像は見ることができる。
当時の三浦弘行九段の眉とそっくりかどうかは、なかなか微妙で判断が難しい。