大山康晴十五世名人「この頃から、私は中原さんと指すと、しんから疲れてしまうようになったし、勝率もぐんと悪くなった」

近代将棋1988年6月号、大山康晴十五世名人の「将棋一筋五十年」より。

 昭和47年の第31期名人戦。これは毎年行われている名人戦の中でも、私にとって忘れ難いものがある。

 この年の七番勝負で私は敗れ、名人位のタイトルは挑戦者の中原さんに移った。

 同じ年。私と中原さんは、そのほかのタイトル戦でも顔を合わせており、王位戦では私が勝ったが、十段戦では負かされている。

 この頃から、私は中原さんと指すと、しんから疲れてしまうようになったし、勝率もぐんと悪くなった。

 その原因は、精神的なもの、肉体的なものといろいろあるだろうが、根本は、どことなく両者の棋風の中に、似通った部分があったためかもしれない。

 この間の事情を、内藤國雄九段が当時、こんな風に記述している。

「自然流という言葉は、原田泰夫九段が名付けた『中原自然流』から急に中原さんに関して用いられだしたが、実はその前に先輩の『大山自然流』が存在していたのである。したがって、今期の名人戦は、自然流という不動のバックボーンを持った二つの棋風の争いであると見ることができる」

(以下略)

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棋風の中に似通った部分がある相手と対局をすると疲れる、というのは、言われてみるとわかるような感じがする。

私は石田流が大好きだが、相手も石田流をやってくると(▲7六歩△3四歩▲7五歩△3五歩のような展開)、急に気持ちが憂鬱になってくる。

棋風という観点ではないが、相振り飛車も気が重い。

似たようなことをやってくる相手だと、疲れるのは確かだ。

やはり、相手が重厚な居飛車党あるいは紳士的な居飛車党である場合は、指していて楽しくなる(中盤までの話だが)。

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もっとも、大山十五世名人が書いていることはもっと奥深いことで、プロにしか実感できない世界での話だ。

しかし、よくよく考えてみると、大山十五世名人が相手であれば、自分の棋風が大山十五世名人に似ていようが似ていまいが、疲れると思う。

そのような大山十五世名人を疲れさせるのだから、中原誠十六世名人もすごい。

「自然流」というのが、言葉から受ける印象とは違って非常に強い毒性を持った棋風ということになるのだろう。