将棋世界1995年5月号、昇級者喜びの声B級2組→B級1組、佐藤康光七段(当時)の「闇の中で」より。
私は遂にハマッてしまった。
どうもこれは直ぐには抜け出せない迷路だな。早くて2、3年、ひょっとすると一生抜け出せないかもしれないぞ。
バカ、気ばかりあせってもしょうがないじゃないか。やっていくしかない。
将棋を覚えて10数年。プロを志して早くも10年。
念願、夢ではあった初タイトルではあったが、フルマラソンを走り終えた感じで、余力が残っていなかった。そして半年位たった頃からこういう夢を見るようになってしまった。
やはり将棋そのものの内容に自信が持てないためかもしれない。
今迄全く考えていなかったが、ツケが回ってきたのだろう。
そんな中、順位戦が始まった。
初戦、有森六段に負け。昇級したいという気はあったが、苦しい戦いが続く事が予想されたので、それ程痛手、ショックは感じなかった。
その後も苦戦の連続であったが、今、振り返ると最も印象に残っているのは5戦目、前田七段との1敗決戦である。
過去の対戦で負け越し、またこの直後に竜王の初防衛戦を控えていたので気合もかなり入っていた。
昼休直後に千日手。指し直しは横歩取りから私が長考を重ね、自重、形勢を損ねるというまずい展開。
10時過ぎ、図の局面を迎える。
私は1分将棋。局面は必敗。相手は時間もかなり残している。
この後、私は殆んど手を読んでいない。
何も考えていなかった。
終わった。しかし何故か勝ったのは私だった。感想戦。前田七段の早見え、正確な大局観。私はあまり読んでいない。執念のみの勝ちといえる。
そして9戦目、師匠の助けもあって昇級することができた。応援して下さった方々に感謝申し上げます。しかし素直には喜べない。新たな夢を見るまでは。
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この期のB級2組、8戦目を終えて、中村修七段(2位)と佐藤康光前竜王(8位)、東和男七段(16位)が7勝1敗、小野修一七段(10位)が6勝2敗と、昇級はこの4人に絞られていた。
そして9戦目(ラス前)、佐藤康光前竜王が関根茂九段に勝ち、佐藤康光九段の師匠の田中魁秀八段(当時) が東和男七段(当時)を破り佐藤前竜王の昇級が決まった。
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佐藤康光七段(当時)は、この文章を書いた4ヵ月前に竜王戦七番勝負で羽生善治名人に敗れて、竜王位を失っている。
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昨日の竜王戦第5局、渡辺明棋王-糸谷哲郎竜王戦は、渡辺棋王が勝って、竜王に復位することとなった。
糸谷八段は、竜王獲得後も特に調子を崩したようには見えなかったので、在位中、この時の佐藤康光七段と同じような悪夢を見ることはなかったのかもしれないが、羽生善治名人も佐藤康光九段も、初めて獲得したタイトルは竜王だったが、翌年の防衛に失敗している。
渡辺明竜王は初タイトルが竜王でその後も竜王を防衛し続けたが、初めて挑戦したタイトル戦(王座戦)では敗れている。
皆、一度は敗れて、そこから大きく飛躍している。
今回の竜王戦七番勝負は、糸谷哲郎八段にとって残念な結果となったが、そのような大きな意味を持つ敗戦だったのだと思う。