谷川浩司九段「そんなことはありません。森さんでよかったんですよ」

将棋世界1999年3月号、「両親が語る・我が子、村山聖の思い出(前編)」より。インタビュー/構成は大崎善生編集長(当時)。

父 どれだけ将棋に熱中していたんでしょうか。ほとんど初心者しか相手のいない療養所のなかで、本だけをたよりに勉強していったようです。小学校3年の頃に月に1日から3日程外泊が許されまして、近所の三、四段の人と指して五分五分になっていました。親戚から近所に強いのがおるからと言われては出かけて行ったりしました。そんな関係で、篠崎教室へ通うようになったのです。篠崎先生もこの子は絶対に強くなると言ってくれまして。丁度この頃、広島将棋センターが開店しまして、そこにも顔を出しました。聖がある日篠崎教室では強くなれんと言いだしましてね。子どもを相手に聖の方が駒を落として指導みたいなことをさせられたりしていたようで、それで段々と広島将棋センターに行く機会が増えていきました。それにしても、ここじゃ強くなれんという聖の意志の強さには驚きました。

(中略)

父 春先に中学生名人戦に出場するために東京へ行きました。習志野の私の友人の家に2人で泊めさせてもらいまして。結果は準々決勝負け、よっぽど悔しい思いをしたんでしょうね、帰りたくない、将棋を指したいと言うので、電話帳で調べて西日暮里の将棋センターに連れて行きました。東京駅に帰るまでに便利そうに思ったからです。そこで大人達を皆負かしてしまったんです。帰ろうかと思ったらそこに丁度小池重明さんがやってきまして。「僕、強いんだなあ」とか言いながら将棋を指してくれることになったんです。随分と長い将棋でした。そして、聖が勝ったんです。「強い」と誉めてもらいましてね。そして帰りに席主の方に小池さんに勝った人はここにサインをしてもらうことになっていると手帳を出されてそこに聖がサインしましてね、なんだかとっても気分がよく意気揚々と2人で広島に帰ってきました。この頃から、聖の照準は完全に奨励会に定められていたようです。「ぼくは一人で大阪へでていく、絶対に奨励会に行くんじゃ」と言い出しまして、体の事もあるので皆で反対するのですが聞くもんじゃありません。「ぼくは大阪へ行く」の一点張りです。そこで親戚に集まってもらう事にしました。私の妹が3人おりまして、その旦那さんもふくめてみな教育者なんです。だから、私が聖を大阪に行かせて下さいとその場で頼んで、それを皆に反対してもらおうと考えたんです。病院生活をしている人間が家に帰ってきても、たまたま体調がよくなるとまた大阪へ一人で出ていってしまうようになる。そうなったらもう私としては手の打ちようがなくなってしまう。ところが、聖は皆の前で逆に大演説をぶつんです。「今いかにゃならん」「谷川を負かすのには今いくしかない、今しかないんじゃ」そう言うと皆の前で頭を下げて「行かせてくれ」。聖を説得するはずの大人達が皆静まり返ってしまいました。そして、ひとりの妹の旦那が、この方はマンモス中学校の校長先生をしていまして、当時は学校が荒れて苦慮していたようでしたが、中学1年生で自分の人生の方針を決められる者はなかなかいない、うちの学校にもこんな生徒が欲しい、と言いだしてしまいまして。結局、大の大人が皆で中学1年生の聖に逆に説得されるという結果になってしまったのです。

母 それでまず篠崎さんの所へ相談に行きましたらまだ早い、2、3年待ちなさいという事だったんです。本人はどうしても受けるつもりだったので今度は広島将棋センターの本多冨治さんの所へ相談に行きました。それで、センターの師範だった下平先生に連絡をしていただきました。下平先生は当時奨励会幹事だった滝先生に広島にこういう子がいるという話をしてくれまして、そして滝さんの弟弟子の森信雄先生を紹介されるということになったんです。私と一緒に大阪の森先生のアパートに行きました。聖は上着も着ていないし靴下もはいていませんでした。余分なものを身につけるのを物凄く嫌がったんです。会ってまず最初にそのことを注意されました。今考えればよく弟子にとってもらえたものです。

父 奨励会は5級で受けまして、いい成績だったんですが、予想もしなかった問題が持ち上がってしまいまして。というのは篠崎さんは篠崎さんのほうで森先生以外の人に師匠になってもらう手はずを整えていらしたんです。二重師匠のような形になってしまってそれでどうしても奨励会に入れないということになってしまいました。私たちも将棋界の事情にうとかったものですから。それがそんなに大変なことになるとは思いませんでした。篠崎さんが頼んだ師匠の顔がつぶれてしまう。

母 ところが聖はどうしても納得がいかない。篠崎さんの談判すると言ってきかないんです。頭を下げましたが「もう、この問題はわしにはどうしょうもない、手の届かんところにいってしもうてる」と言われまして。聖にしてみれば、それは納得がいかなかったでしょうね。すべて大人の世界のことですから。私と2人になってから「大人はずるい」「人間はきらいじゃ」と物凄く泣きまして、「ぼくは何も恐くない、恐いのは人間じゃ」とそれこそ気が違わんばかりに泣きじゃくって。残念で残念で、悔しくて仕方がなかったのでしょう。たかが1年かもしれませんが子どものころから病院暮らしを続け、幼い子どもたちの死をみてきた聖にとっては、1年というものの価値の大きさがまるで違ったものだったんでしょう。

父 そのショックでしょう、1週間ほどまた入院しました。しかし、その後森先生が大阪で面倒みるからこっちによこしてくれと言って下さいまして、中学2年の春に大阪の森先生のアパートに住み込みました。そして、その年の奨励会試験に5級で合格、やっと待ちに待ったスタートラインに着く事が出来ました。その後は順調にいってくれました。今思えば、あの1年も力をためるという意味で意義があったのかもしれないと思っています。

(以下略)

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将棋世界1999年3月号、大崎善生編集長(当時)の「編集部日記」より。

1月19日(火)

 昼ごろこそこそと編集部に行くと谷川九段が私の隣の席に座っている。今頃来て全く困ったおっさんですねと顔がいっているように思えて仕方ない。村山さんのインタビューで「今、行くんじゃ。今行かなきゃ谷川に勝てん」と言った中学生の頃の村山少年のことを話すと谷川さんの顔がすっと優しくなった。村山さんとのちょっとした思い出話を聞かせてもらい幸せな気分だった。

 私が村山君にしてみれば師匠が誰というよりも一年間の方が大事だったのかもしれませんね」というと、「そんなことはありません。森さんでよかったんですよ」と静かにつぶやいた。

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村山聖少年の「谷川を負かすのには今いくしかない、今しかないんじゃ」

村山聖九段のお母さんの妹の旦那さんの「中学1年生で自分の人生の方針を決められる者はなかなかいない、うちの学校にもこんな生徒が欲しい」

そして、谷川浩司九段の「そんなことはありません。森さんでよかったんですよ」

この3つの言葉が、それぞれ方向性は異なるが、非常に感動的だ。

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結果的に二重師匠のような形となって、奨励会試験で十分な成績をあげながら入会が見送りとなった村山聖少年。

村山少年は、森信雄四段(当時)のアパートで内弟子生活を送りながら、1年後に奨励会に入会、2年11か月という超スピードで四段となる。

奨励会入会から四段になるまで、羽生善治少年が3年、谷川浩司少年が3年8ヵ月であったことを考えると、村山少年がいかに驚異的な早さで奨励会を駆け抜けていったかがわかる。

村山九段のお父さんが「今思えば、あの1年も力をためるという意味で意義があったのかもしれないと思っています」と話しているように、森信雄四段との生活を始めたその1年が、奨励会入会後の大きな力になったのだと思う。