昨日の『真田丸』の頃に指された将棋(最古の局面図:天正駒組図)

先週から今週にかけての『真田丸』は天正15年から16年(1587年~1588年)にかけての出来事。

現在、発見されている最古の局面図も天正15年のもの。

将棋世界1979年1月号、大内延介八段(当時)・天狗太郎さんの「振飛車のルーツ(1)」より。

 聖書に、『初めに言葉があった。言葉は神であった』という有名な文章がある。将棋の歴史を現存する史料からさぐるとき、『初めに振飛車があった。振飛車は源流であった』ということができると思う。

 現存する最古の棋譜は、古写本『将棋集』(国立国会図書館蔵)に載せる大橋宗桂と本因坊算砂との平手戦である。宗桂・算砂戦は同写本の記述によると、慶長16年以前に70番、慶長16年(1611年)から元和4年(1618年)まで54番があったという。ただし、前者は不出来のゆえに伝えず、後者は、54番のうち宗桂は34勝したと書いてある。

 これまでは、『象戯鏡』所載の慶長13年正月28日の対戦が最古とされたが、故・西村英二氏の努力で古写本のなかから慶長12年(1607年)と元和元年(1615年)の対戦譜が発見され、刊本所載譜と合わせて8番が伝わることがわかった。

 8番は、いずれも振飛車の将棋である。

 それ以前に、さらに古い駒組図(天正駒組図)が伝わる。松平家忠の『家忠日記』(松平家所蔵の天正15年(1587年)2月下旬の条)の余白に書き込まれたもので、歴史学者の故・高柳光寿博士が発見されたものである。

天正駒組図

 幼稚な駒組である。それから20年経った慶長12年の宗桂・算砂戦とくらべると、たとい無名の人の駒組図であったとしても、いかに劣るかがわかるだろう。

 いや、その駒組の未熟さよりも、最古の駒組図が振飛車であることが何よりも嬉しい。

 現代将棋の誕生は、文献の上では室町期ということはできるが、それから安土桃山時代を経て江戸時代に入るまでの数十年(見方によっては百余年)のあいだに、どれだけ将棋の技術は進歩してきたか。

 天正駒組図が振飛車であり、慶長12年の最古の棋譜が振飛車であることは、室町時代から安土桃山時代までの長い歳月に試みられた将棋は、多くは振飛車であったという推定が成り立つ。ほかに有力な先方があったとすれば、何らかの形で初代宗桂の対戦譜にその戦法が影響を落としているはずである。

 また、こういう推定も成り立つ。かりに、他の戦法があったとしても、それは宗桂や算砂の振飛車戦法に駆逐されて、「兵どもが夢の跡」と消え去ったのではないだろうか。

 右のように、どのような推論をもとにするとしても、将棋史の初めに振飛車があったということは間違った主張ではないと思う。

(以下略)

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安土桃山時代に棋書が発行されていた可能性は非常に少なく、また情報の伝播も口コミしかなかった時代なので、全国を放浪する賭け将棋師でもいない限り、武士とはいえども一般の人の将棋の技術は20年経ってもほとんど変わっていなかったのでないかと個人的には思う。

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逆に、大橋宗桂と本因坊算砂は、現在のAIのディープラーニングのごとく、二人の対局の繰り返しによってどんどんお互いの技術が進歩していったのだろう。

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最古の棋譜を発見した故・西村英二氏は、故・越智信義氏と並ぶ将棋文献収集家。

最古の局面図を発見した故・高柳光寿博士(1892年-1969年)は元・國學院大學教授で戦国史研究の権威。

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松平家忠(1555年-1600年)は徳川氏の家臣で、城郭の普請や補修などに従事することが多かった。

1600年の、石田三成ら西軍の挙兵を誘った伏見城の戦いで、松平家忠は鳥居元忠らと共に亡くなった。

『家忠日記』は天正3年(1575年)から文禄3年(1594年)までの間、その日に何が起こったかを簡潔に書き綴った日記。

現代で言えばブログのようなものだろう。

松平家忠は絵心もあったようで、余白にいろいろな絵が書かれている。

「松平家忠日記」~戦国時代の落書きを見る~(サムライ銅像研究会)

最古の局面図もその一つ→天正駒組図(サムライ銅像研究会)

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普通に考えると、最古の局面図や棋譜は、居玉の力戦相掛かりのようなものになるような感じがするのだが、振り飛車であることが不思議だ。