将棋世界1981年1月号、読売新聞の山田史生さんの第19期十段戦(中原誠十段-加藤一二三九段)盤側記「まれに見る好勝負」より。
いよいよあすから十段戦七番勝負の第1局。前日から泊まりこみとなるので、ボストンバッグに着替えや洗面用具、原稿用紙などをつめこんで、やや引き締まった気持ちで家を出ようと思っていた10月27日の午前、将棋連盟副会長の丸田祐三九段から電話が入った。
「中原十段のお父さんが危篤です。中原さんは2、3日前から病院につめ切りで、ろくに寝ていない。対局を延期するようとりはからいたいのですが」という。
どうしたものか、と考えて間もなく、その電話で「今、亡くなられました」の続報。
一親等の死亡は、連盟規約にもあるし、実際問題、平静な気持ちで将棋が闘えるわけはなく、一も二もなく延期で措置をとることになった。
挑戦者の加藤九段にしても、第1局に備え万全の心づもりをしていたであろう。それがはぐらかされたわけだが、当の中原十段にしてみれば、はるかに深刻だ。
長男ではないが、同居していた父親だし、一ばんの当事者として、お通夜、葬式などの采配をふるわなければならない。
そして、父・亀之助さんは、中原が小学生時代、将棋を指すことに対する、最初の、そして最大の理解者であった。将棋界の第一人者中原が今日あるのは、一に亀之助さんの存在ゆえといえよう。
その心の痛手は想像に余りある。さらに後日聞けば、母・ませ子さんも背骨を折って入院中とのこと。高いタナの品物を取ろうとして、椅子から落ちたのだそうだ。亡くなった亀之助さんは、毎日看病にいっていたというから、その疲れもあったのかもしれない。
母は入院、父は急死、これはもう、コンディションとしては最悪である。
対局は第2局に予定してあった11月6、7日をそのまま第1局にあてることにしたが、果たして中原は、心の痛手、体の疲労から立ち直って登場してくるのであろうか―。
なお対局延期について、各対局場には、日程変更その他でいろいろご協力を願ったが、一ばん大変だったのは、第1局の対局場、東京・千駄ヶ谷の「玉荘」と、前夜祭会場の「十千萬」であった。
当日になってのキャンセルは、迷惑にきまりきっているが、「玉荘」「十千萬」双方の社長である内田文雄さんは、うらみがましいそぶりは毛ほども見せず、逆に「大事な対局を前に、まことにご愁傷さまです。延期の気づかいはご無用です。葬儀には花輪をぜひ並べさせてください」と、ありがたい限りの態度をとっていただいた。ここで一言、触れておきたい。
それにしてもタイトル戦一日目の出来事であったらどうしたものであろうか。本人に知らせないわけにはいかないし、知らせた以上、対局は続けられないだろう。途中、棄権負けということも考えられる。せめて前日であったのが不幸中の幸いであった。
さて第1局の前日の11月5日夕。中原は、心中は知らず、外見は思ったより元気な顔色で「玉荘」へ現れた。
だれかれに「いろいろありがとうございました」と頭を下げてはいたが、いつも通りの平静、温厚な中原であった。
第1局終了後、少し聞きにくいことだが、私は中原に「指している最中、お父さんのことを思い出しませんでしたか」と聞いてみた。
中原は「将棋を考えている間は思い出しませんでした」と答えてから、ややあって「でも、急でしたからね」と、そえた。
それは、年中考えていたのでは将棋は指せないが、ふと我に返ったり、休憩中、自室で寝転んだりしている時は、当然父のことがあれこれ胸中に去来したことであろう。
1年も2年も寝込んだあとの死去なら、心の準備もだんだん出来ていくだろうが、亀之助さんの場合は、ほんの4、5日の間の急死だったのだから―。
立会人は萩原淳九段と加藤博二八段、記録係は鈴木英春三段。
長老の萩原九段は話好き。それに中原十段の気持ちを引き立てようとする意味と、険しくなりがちな対局場の空気を柔げようとの意図も含んでいるのだろう。昼食のあとの再開直後など、ユーモアのある発言を時々する。
「加藤さん、あんたは感心やなあ。背広できちんと正座では、くたびれるやろ。よう肥えとるけど80キロはあるか」
加藤、苦笑しつつ「ええ、ありますが、座るのは大丈夫ですよ」の返事に、中原も吹き出しそうになり、口をおさえる。
またある時は「加藤という名前は、将棋連盟で一ばん多いな」といい出したりする。
そういえば、この加藤一二三九段と今回、副立会いをつとめている加藤博二八段をはじめ、加藤治郎名誉九段、加藤恵三七段と4人もいる。
加藤、「平凡ですからね」とあいづちをうてば、観戦記担当の山本武雄八段も「電話帳見たらオレと同姓同名がずらりと並んでいるのでいやになっちゃうよ」といったりで、しばし名前談義が行われたりする。
若い立会人ではこうはいかない。棋界の長老萩原九段ならではの、独特の空気づくりなのである。
(以下略)
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中原誠十六世名人は、お父様が亡くなったことが気持ちの上で影響があったのだろう。この十段戦第1局は敗れ、また七番勝負も1勝4敗となり十段位を失ってしまう。
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中原十六世名人は、1982年には名人、王位を失い、1970年に十段を獲得して以来、12年ぶりの無冠転落となった。
この時、中原十六世名人はとても優しい人柄で、お父様が亡くなったことが不調の遠因なのではないか、と書いた週刊誌もあったほど。
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日本経済新聞の「私の履歴書」で中原十六世名人は、加藤一二三九段との激闘を繰り広げた名人戦で名人位を失って、そのショックで同時期に行われていた王位戦でも負けてしまったと振り返っている。
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1982年の十段戦で加藤一二三十段(当時)にリベンジを果たし、中原十六世名人の無冠は3ヵ月で返上されることになる。
また、中原十六世名人は、2年以内の名人奪還を目標として、棋風の改造に取り組み始めた。
中原十六世名人ほどの実力と実績なら、タイトル失冠は時の運、また頑張って取り直せばいい、と考えても不思議ではないし、それで十分だと思うのだが、棋風改造にまで踏み込むところが名人の名人たるところ。
本当に凄いことだと思う。