大内延介九段お別れの会

昨日の午後、日本将棋連盟で行われた「大内延介九段お別れの会」へ参列をしてきた。

非常に多くの方が来られていた。

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受付は1階の入り口を入ったところ。

会場は4階。

4階でエレベータを降りると、佐藤康光会長、森内俊之専務理事、鈴木大介常務理事をはじめとする方々の立礼。

心の準備ができていなかったので、非常に恐縮してしまう。

会場の誘導は葬儀社の複数のスタッフで、非常に手際がいい。

驚いたのは、4階の廊下、対局室の畳の上に厚い保護マットが敷かれ、靴を履いたまま入場できるようになっていたこと。この辺も葬儀社が長年かけて蓄積してきたノウハウなのだろう。

はじめに控え室(桂の間)へ案内される。

椅子が40席ほどあって、控え室の人数が30~40人ほどになったら会場(高雄 ・棋峰 ・雲鶴)へ移ってお別れの会が行われるというシステム。

多くの人が絶え間なく来ていたので、この日だけで何回繰り返されたことだろう。

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高雄 ・棋峰 ・雲鶴は、ここが対局室、とは思えないほど、完璧な「お別れの会」の会場となっていた。

祭壇には、大内延介九段の写真、花、そして7月17日付で日本棋院から贈られた囲碁の八段の免状が飾られていた。

司会は日本将棋連盟の小泉勝巳さん。

私が大内延介九段と初めてお会いしたのは1995年7月のことだった。当時の大内九段は渉外などを担当する専務理事。

仕事でのお付き合いだったが、その時の職員担当者が小泉さんだった。

大内九段と小泉さんと一緒に打ち合わせをしたことが何度かあった。

大内九段の遺影と小泉さんの顔を同時に視界に入れながら、21~22年前のことを思い出しているうちに、とても感傷的な気持ちになってきた。

そして、大内一門を代表して、飯田弘之七段からのあいさつ。

大内九段は癌で、今年に入って抗がん剤治療を行っていたという。

A級から一度陥落して再度A級への復帰を賭けた対石田和雄七段戦の死闘、穴熊、豪快な寄せ、今年になって大内九段と一緒に山へ行ったことなど、飯田七段は師匠の思い出話を語ってくれた。

大内九段が亡くなったということが実感として迫ってきて、寂しさが増幅してきた。

一人一人が祭壇に献花をして、「お別れの会」は終了した。

大内先生、ありがとうございました。

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将棋会館に到着したのは16:30頃。受付をする前に喫煙所へ行くと、写真家の弦巻勝さんがいた。

一番最後にお会いしたのが中野の酒場だったから、10年振り以上ということになる。

弦巻さんは10年前と外見が変わっていない。短い時間だったが、とても楽しい会話だった。

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「お別れの会」への参列を終え、将棋会館を出て少し歩くと、向こうから将棋会館へ向かってくる見覚えのある顔が。

三浦弘行九段だった。

三浦九段に会うのは、昨年9月の将棋ペンクラブ大賞贈呈式のとき以来。

私「どうも、どうも」

三浦九段「やあ、どうも」

三浦九段「今、会場は混んでいますか?」

私「それほどでもありません」

私「4階の対局室が、想像もできないくらい変わっていますよ。もう、全くの「お別れの会」仕様になっています」

三浦九段「そうなんですね、それでは、また今度ゆっくり」

私「はい、また今度」

そして、三浦九段は数歩歩いたところで、「ご心配をおかけしてすみませんでした」と言って私の方に振り返った。

私なんかに言わなくたっていいのに、と涙が出そうになった。

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ふと考えると、家を出る1時間半ほど前に、twitterで次のような投稿をしていた。

弦巻勝さんと三浦弘行九段、偶然とはいえ、嬉しい展開だ。