将棋世界2002年12月号、鈴木宏彦さん記の「第15期竜王戦挑戦者 阿部隆七段インタビュー 無欲に秘める関西の闘志」より。
「人のことは意識しない」という阿部だが、1度だけ将棋に負けて泣いたことがあるという。平成3年の第59期棋聖戦と翌年の第60期棋聖戦で阿部は、2年連続挑戦者決定戦に勝ち進んだ。当時、阿部は24歳の五段。関西の大器がいよいよ大舞台に登場するかと、周りも期待した瞬間だ。
最初の挑戦者決定戦の相手は当時竜王の谷川。相矢倉。序盤でリードした阿部だが、中盤で失速した。「相手は谷川さんだから、プレッシャーも悔しさもなかった」という。だが、2度目の対戦相手は当時まだ四段の郷田真隆。阿部より年下の関東の新鋭である。
阿部「谷川さんのときとは全然違う。順番的に行っても、今度は自分の番だと思っていた。それをひどい内容の将棋で負けた。将棋に負けて泣いたのは、あとにもさきにもこの時だけです」
阿部は、「自分は羽生世代です」と言う。阿部は昭和42年生まれ。羽生は昭和45年生まれ。3年の差はあるが、四段昇段は同期。それに、本格的に将棋を始めたときに初めて意識したライバルが佐藤康光だったし、今も最も親しくしている棋士仲間がその佐藤と森内なのだ。そういう意味では羽生に対する世代的な違和感はほとんどないのだろう。関西の羽生世代といえば、もう1人、村山聖がいた。あの悲劇の天才と阿部はどう付き合ったのだろう。
阿部「若い頃の村山君とは合わなかった。四、五段時代の村山君にはとげとげしいところがあったし、こっちも生意気だったから。でも、彼の晩年はどちらも丸くなって、よく話し合った。彼が亡くなった年の3月にもわざわざ2人で鶴橋まで行って焼肉を食べたくらい。お互いに成長して分かり合えたと思う。村山君の将棋も最初はストレートすぎて味がないと思ったけど、段々長所が見えてきた。あのファイトは懐かしい。他の関西の棋士はみんな欲がないんですよ。よく言えば人がいいけど、悪くいえばうしろ向き。タイトルを取るとか、A級に行くとか、もっと堂々と気持ちを出してほしい。東京に住んでいるほうが強くなりやすいとか、大阪にいたら強くなれないとか、そんなことは絶対にない」
(中略)
阿部「自分は関西の棋士だという意識は当然あります。村山君が東京に行くずっと前から、自分も東京に行ってみたいという気持ちはあった。行ったら行ったで考え方も変わったかもしれないけど、やっぱり、大阪で強くなりたいという意識が勝ったんです。大阪の将棋会館で僕が谷川-羽生戦の解説をするでしょう。終盤、羽生必勝の場面で羽生の勝ち筋を解説すると、お客さんが、『そんなんどうでもええから、谷川の勝ち筋を解説してくれ』というんです。どう見ても谷川さんの勝ち筋なんかないんだけど、それでも谷川さんを応援する。そういう大阪の雰囲気が好きなんです。若いころは自分が勝つことがすべてだったけど、この年になってファンの声も聞こえるようになってきました」
(以下略)
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1992年の第60期棋聖戦挑戦者決定戦で郷田真隆四段(当時)に敗れた阿部隆五段(当時)。
この数日前に行われた王位戦挑戦者決定戦では佐藤康光六段(当時)が郷田四段に敗れている。
郷田四段が谷川浩司棋聖(当時)に挑戦した第60期棋聖戦第3局の立会人は、佐藤六段と阿部五段の師匠の田中魁秀八段(当時)。
この時、田中魁秀八段が郷田四段に話しかけている。
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阿部隆八段と村山聖九段の関係。若い頃は反目しあっていても、年齢を重ねて仲が良くなる場合があるし、そうでない場合もある。
二人は将棋を通して、もともと仲良くなる運命だったのだと思う。
鶴橋は大阪の焼肉のメッカ。
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「羽生必勝の場面で羽生の勝ち筋を解説すると、お客さんが、『そんなんどうでもええから、谷川の勝ち筋を解説してくれ』というんです。どう見ても谷川さんの勝ち筋なんかないんだけど、それでも谷川さんを応援する。そういう大阪の雰囲気が好きなんです」
大阪から離れたくない理由が、非常な説得力をもって伝わってくる。
大阪らしい大阪の良さ、と言えるだろう。