羽生!という手

将棋世界2003年1月号、読売新聞の小田尚英さんの第15期竜王戦第1局(羽生善治竜王-阿部隆七段:指し直し局)観戦記「3度目の開幕戦で羽生先勝 阿部の横歩取り8五飛は不発」より。

 両対局者に冷房を入れた台北とは一転、宇都宮には秋の冷気がおりていた。

 千日手が2回という異例の立ち上がりとなった竜王戦。本局はその第1局再指し直し局である。改めていざ、なのだが、対局者は、真っ白な気持ちで、とはいかないだろう。すでに台北でゴキゲン中飛車、矢倉と「手の内」を出した後なのだから。私も、始まりと継続が混在する不思議な感覚で宇都宮対局を迎えた。

 ファンら約80人が集まった前夜祭で、羽生は「仕切り直しという気持ちで頑張る」阿部は「千日手の結末は残念だが、その気持をぶつけたい」と、それぞれ決意を語った。

 35歳の阿部は、棋士として数々の舞台を踏んできている。作務衣を和服に替えたからといって、普段の対局と変わりはない。30を過ぎてから強くなったと自慢する。まさに充実の時だ。指し手について容赦のない率直な批評で知られているが、意外にも実生活は「結構お人よしなんです」と本人は言う。台北で買い物をした際、付きまとう店員をなかなか振りほどけなかったのを見て、なるほどと思った。

 羽生は、これで3期連続の竜王戦となる。話している時は話題も広く笑顔が絶えないが、その必要がない時は自室に戻って休んでいる。ペースはいつもどおりだ。ただ、過去2年よりも笑顔の時間が少し長いように思える。充実しているのだろう。

(中略)

 初手が指された後、私は撮影用にはずしていた障子をはめ直して控え室に戻る。毎度のことだが、何年担当者を務めていても対局が無事始まるとほっとする。

 阿部の選択は横歩取りだった。

 この戦型、出始めの頃は主導権の取れる後手が6割を超す勝率を収め、一躍居飛車の戦いの主流戦法となった。現在は、というと、集中的に指されたこともあって先手の対策も進み、勝率は落ち着いてきた。当初からこの中座飛車を採用している野月浩貴五段に竜王戦本戦の時に聞いたのだが、彼は「今は後手が少し苦しいと思います」と言っていた。

1図以下の指し手
▲2六飛△4一玉▲5八玉△6二銀▲3六歩△5四歩(2図)

 アマチュアがほとんど指さないのにプロの主流となっているこの戦法。序盤のこの辺りの手の組み合わせは企業秘密になっていることも多く、実際、本局の感想戦でもほとんど触れられなかった。よって正確な解説は難しい。ただし、後の形勢に直接結びつくだけに、プロは陣形の組み立てに心血を注いでいる。そのことは消費時間で分かる。

(中略)

 4図以下の指し手
▲7五歩△2四銀▲3四歩△同飛▲8六飛△5六歩(5図)

 4図では手筋の▲2二歩が目に付く。△同金は▲4三飛成。△3一玉は王手飛車があるから歩成は受からない。控え室の検討ではこれで後手が困っていた。しかし羽生は目もくれず▲7五歩。8一桂の活用を封じた本筋の大きな一手である。

 阿部「▲2二歩には△4四飛とぶつけますよ」。不利を覚悟していた阿部にとって乱戦化は歓迎なのだ。それを見抜いているところに、当然とはいえ、羽生の卓越した大局観を感じた。

(中略)

 飛成りを見せた▲8六飛。先手快調。△8四歩と受けるのは▲3七歩と攻めを封じられて後手ジリ貧、「大差です」(阿部)。また△3七歩▲同金△4五桂は▲3六金△8五歩▲6六飛。「これもダメですね」。で、阿部は勝負手を放った。それが△5六歩である。私は大盤解説会場にいたが、ヒントにないこの「次の一手」を当てた方が一人いたのには驚いた。ここで動かないと後手まずい。当てた方は阿部と同じ大局観である。

5図以下の指し手
▲8一飛成△4五桂▲9一竜(6図)

 △5六歩に羽生が「最初は軟弱に▲同飛と取ろうかと思った」と言ったから感想戦は笑いに包まれた。阿部は「それでも悪いでしょうけど」。▲8一飛成は後手の攻めを呼び込むだけに怖いが、北浜六段は大盤解説で「私ならこれで負けても後悔しません」。

 殺到体勢を築く△4五桂に、さらに手抜いて▲9一竜。これには本当に驚いた。踏み込みがいい。羽生!という手だ。もっとも▲4九桂と受けるのは△2八角の手筋があって後手が面白い。▲5六歩と手を戻すのも△5七歩▲同銀△4九角の必殺打がある。▲同玉△5七桂成は後手勝ち。それに比べて▲9一竜は、玉が上部に追い出された際の△9二角を防ぐ意味もあり、攻防の手となっている。

(中略)

 ほかにも変化はたくさんあるが、要は阿部の読みどおり、先手玉は寄らない。チャンスは幻だったのだ。午後6時12分、阿部が投了。

(中略)

 短手数ながら際どく面白い終盤戦だった。本局は大局観と踏み込みのよさという羽生の長所が発揮された。羽生「3筋の位が取れたのが大きかった」、阿部「やっぱり作戦負けでした」が感想戦の結論だった。三度目の正直で羽生先勝。2千日手も含め密度の高い将棋を間近に3局見たので、とてもオープニングゲームとは思えなかったのだが、まだ第1局が終わったばかり。羽生が去った後、阿部は自ら丁寧に駒をしまった。タイトル戦では記録係が片付けるのだが、思うところがあったのだろうか。「調べてみたんですが、羽生さんって先手の勝率が異様に高いんですね」。阿部は問わず語りにそう言った。主力戦法で一局失ったのは痛いが、次は先手番。戦いはこれからだ。

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5図からの▲8一飛成が決断の一手。

「最初は軟弱に▲同飛と取ろうかと思った」と羽生善治竜王(当時)が語っているように、▲5六同飛ならローリスク・ローリターン、▲8一飛成ならハイリスク・ハイリターンの世界。

あるいは、ミドルリスク・ハイリターンと読んだから▲8一飛成が選択されたとも考えられる。

どちらにしても、リアルタイムで中継を見ていたならば、▲8一飛成の踏み込みの良さに鳥肌が立ったことだろう。

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そして、△4五桂に▲9一竜。

歩兵部隊の△5六歩、続いて戦車部隊の△4五桂が自陣を攻撃しようとしている時に、迎撃隊は出さずに敵国内に飛行場を建設するような▲9一竜。

やはり驚きの一手で、リアルタイムで中継を見ていたならば、指された瞬間、頭で手の意味を考える以前に鳥肌が立つこと間違いなし。

小田尚英さんが書かれている通り、まさに「羽生!という手だ」という手。

△5六歩~△4五桂の攻撃を甘受したのは、自陣の要塞の天井に穴を開けてもらって、そこを脱出口にしようという狙いだ。

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この期の竜王戦七番勝負は第1局が台北で行われ、千日手が二度続いたことから、この対局が実質的な第1局。

七番勝負は羽生竜王の4勝3敗での防衛となったが、最終局が行われたのが翌年1月初旬で、竜王戦七番勝負が年を越した唯一のケースとなっている。

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香港の空港でのこと。かなり昔の話。

帰りの便を待っていた私が空港内をブラブラしていると、あるショーケースの前で、店の女性が私に向かって笑みを投げかけてきた。

非常に愛くるしい雰囲気のアイドル型の広東美女。

ショーケースの中にはアクセサリー的なものが多く並べられていた。

買いたいものはなかったが、そういえば会社の人へのお土産を買っていなかったということで、表に「福」、裏に「寿」とある、いかにも金メッキの小さな小物を買うことにした。

値札には50と印字されているので、当時の香港ドルのレートで計算すると850円位。縁起が良さそうなので5個ほど買おうと思った。

しかし、よく見ると、50は香港ドルではなく米国ドル(当時で7,000円以上)であることがわかり、買うのをやめようかと一瞬思ったものの、その彼女の笑顔を見ると、やっぱり1個だけ買おう、と心が動き、結局は自分用に1個だけ買うことにした

「買って」とも言われていないのに買わなくても良いものを買ってしまった典型的な事例だが、付きまとう店員をなかなか振りほどけなかった阿部隆七段(当時)とは全く逆のケースだ。