将棋界では非常に珍しい幽霊の話

将棋ジャーナル1983年11月号、才谷梅太郎さんの「棋界遊歩道」より。

 実に久しぶりの暑い夏も終わり、ようやく涼しい季節がやってきた。それにしても今年の夏は暑かった。いったい37度なんて、ここはほんとうに日本なのかいな、てな気分になってしまった。

 そこで今回は、さらに涼し気な気分を味わっていただくために、こわーい話をしてみたい。

 多芸で広いファン層を持つS八段は、当時まだ20歳の青年だった。四段になって2年目のその年、順位戦でSは順調に勝ち星を重ねていた。

 そしてもう一人。Sの友人で、やはりその年、五段昇級を狙うMという四段がいた。この人物こそ、物語の主人公なのである。

 明朗快活な性格のSに比べて、Mにはやや暗いところがあった。親友として、また同僚として、Sは以前からこの暗さを気に病んでいたのである。

 その後、Sは連勝を続け、最終戦を待たずに五段昇級を決めたが、一方のMは考え込む性格が禍いしてか、順位戦の終盤にきて思いもよらぬポカを出して、あらた勝局をフイにしていた。

 そして文字通り、最終局に昇級を賭けて戦うことになってしまったのだ。これはM当人にとって、たいへんな痛手だったに違いない。

 Mの素質が優れていることは、棋界のだれもが認めている。真面目にコツコツと、毎日の努力も怠っていなかった。

 その実力を出し切ることさえできれば、このクラスではむしろ昇級しないほうが不思議なくらいだったのである。

 問題はMの内面に潜んでいた。

 内向的で神経質。つまり、おうおうにして将棋指しにありがちな、タマゴの殻の中に一人で住み、わずかな隙間から世間を覗き込んでいるような所があった。

 そんなMが狭隘な自分の世界から逃れ得る時間帯といえば、酒を呑んでいるときだけ、と言ってよかった。

 持つべきものは友である。

 Mの落ち込みぶりを見かねて、唯一の親友ともいうべきSは、彼に宴の席をもうけるべく奔走した。

 Sの計画は用意周到と言えた。その日取りを、Mが命運を賭けて戦う、順位戦最終日の1週間前に置いたのも、さすがであった。

 説明するまでもないだろうが、Sの思惑では、

「対局の1週間前に、凡てを忘れて呑み狂う。となると、翌日は使いものにならんだろう。よしんば、興に乗りすぎて深酒し、2日間つぶれたとしても、まだ4日有余がある。これだけあれば、対局日までに万全の体調にもっていけるだろう」

 という算段であった。

 ところが友情一色に染まりながらMのために飛び回っていたSは意外な朗報を耳にしたのである。

 村の外れの寺に住む将棋好きの住職が、どのようなルートで聞き知ったのかは判らぬが、

「そのような事情であれば、私の屋敷を提供しよう」

 と言う。

 それも、酒だけであればこちらでいくらでも用意しましょう、という願ってもない、ありがたい申し出なのである。

 寺という、やや陰湿なイメージがMに与える影響をいくらか気にしながらも、Sがこの話に飛びついたことは、何人といえども非難できないだろう。

 Mの悲劇は、こうして決定的なものになった。おそらくは、これが避けざる運命だったのだろう。、

 その日、赤黒い稜線に膨張しきった太陽が沈むころ、二人の若い将棋指しは、呆れるほど閑散とした古寺にたどりついた。

 しかし二人を迎えた人数は、意外なほど多勢だった。20人はいる。

 中央にいくつかのテーブルが置かれた。広い部屋の隅には、住職の話の通り、数え切れないほどの一升瓶が整然と並んでいた。

 住職はおとなである。

 硬い表情の二人を前にして、

「今日は何も気になさらずに、とことん呑んでくだされ」

 と、やわらかく緊張をほぐす。

 性格の暗さについては、ほとんど本能的といってもよい体質を持っているMも、この一言で救われた。

 もともとが嫌いなほうではない。

 2杯、3杯とグラスの冷酒を重ねるうちに、プロの将棋指しを見たさに集まった20人余りの人々とも、たわいなく融合した。

 酔ってしまえば、人間というものはみな一様に血のつながりのようなものを感じる動物らしい。

 この若い二人も、むろん例外ではなかった。

 それでも、Mのためにこの宴を思い立ち、かつ実現させたSにしてみれば、その志なかば以上成ったという気分であったろう。

 なにしろ、ふだんは自分から人に話しかけることなど皆無といってよいMが、呑むほど酔うほどに、やたら能弁となって主役になりきっている。

「後はMが酔いつぶれたら、カゼをひかないように、ゆっくりと眠らせてやろう」

 それで俺の役目は終わる、というのが、Sの偽らざる気持ちであったはずだ。

 悲劇は、この直後におこった。

 一人では歩くこともおぼつかないかに見えたMが、フラフラと立ち上がり、

「便所はどこだ」

 と言う。

「ここは寺さ。便所は外にしかないよ」

 との返事に対しては、礼を言うどころか声の主に顔も向けずに、ヒョコヒョコ歩き始めた。

 肩を貸そうとする親切な輩もいたが、Mはたいそう迷惑そうに、その腕を無言で振りほどいた。

 彼の姿が消えて、およそ5分ほどの時間が流れている。その間、部屋の中の空気は、陽気一色だった数分前に比べると、一様にややシラけてしまったようだ。

 しかし皆の心配をよそに、Mはニコニコしながら戻ってきた。あまり嬉しそうなので、Sが質すと、

「今、そこの垣根のところで、若い女にあった」

 と言う。

 それを聞いた一人の老人が、

「それは不思議だ。この寺に女はいないはずだが」

 と応じると、Mはムキになって言い返した。

「僕は、はっきりと見た。垣根の後ろに着物をつけた若い女の人がいたんだ。着物の柄だって覚えているぞ。それに、なんといっても彼女は僕に話しかけてきたんだ」

 どうにも話が、現実味をおびてきた。

 なんでもMの話を総合すれば、便所に行った帰り、垣根をまがったところで頭の上のほうから、若い女の声で、

「コンバンハ」

 と聞こえたという。

 振り向くと、垣根の上にちょうど上半身出た形で、着物姿の妙齢の女が薄笑いを浮かべているではないか。

 Mは別に奇妙だとは思わなかった。ごく自然に、

「あっ、こんばんは」

 と答えたらしい。

 ただそれだけのこと…とはいかなかった。

 ひと通りの話が済んだ時、一人の赤ら顔の若者が、いかにも不思議だという顔をしながら、こう言ったのである。

「しかし垣根の上に上半身が出ていたとなると、ずいぶん背の高い女だなあ。垣根だけで2メートルはあるから、3メートル近い身長だねえ」

 これを聞いた途端、Mの顔面からサッと血の気が引いた。血液に色素が青く変化してしまったような顔色であった。

 そこで住職の口をついて出た一言も、あまりにタイミングが合いすぎていた。

「出ましたか。しばらく出なかったのだが」

 最後の気力も消失して、Mはその場に昏倒した。そして翌朝から40度近い熱を出し、2週間のあいだ悶絶しつづけるのである。

 むろん対局は不戦敗になった。同時に昇級の望みも、はかなく消えたわけである。

 Mのその後がどうなったかは、あえてここに記さないことにする。

 一つだけ、はっきりとしていることは、その後M、Sの両者とも、最高位の八段まで昇ったことだ。

 ちなみに、この女の幽霊は今でも時々、同じ場所に出るそうだ。

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才谷梅太郎さんは、将棋ジャーナル編集部員だった元奨励会員の中野雅文さんのペンネーム。

調べてみると、中野さんはこの頃28歳なので、この話は奨励会員に代々伝わってきた話なのだろう。

「当時まだ20歳の青年だった。四段になって2年目」でC級1組へ昇級したのは、芹沢博文四段(当時)と考えて間違いない。

芹沢九段が五段に昇段(C級1組昇級)したのが1958年。

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この期にC級2組に在籍したイニシャルがMの四段は一人だけだが、推測が間違っているとマズいのでイニシャルのままとしておく。

当時の記録を見ると、M四段が最終戦に敗れて昇級を逃したのは1960年のこと。勝った方が昇級できるという直接対決だった。

ただし、最終局は不戦敗の印は付いていないので、不戦敗は正確な言い伝えではないのだろう。

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「Mのその後がどうなったかは、あえてここに記さないことにする」と書かれているが、M四段は1963年にC級1組に昇級している。

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将棋に関することで幽霊が登場する文章は、発表されたものだけでは、この記事だけだと思う。

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「将棋と幽霊」と同様、ありそうでないのが、東京・銀座に幽霊が出たという話。

これは、故・池田弥三郎さんが何かに書かれていた。

同じ東京の盛り場でも、六本木となると、幽霊がらみの話が多くなる。