今年の5月29日に亡くなられた元・近代将棋編集長で将棋ペンクラブ幹事の中野隆義さんから、このブログのコメント欄に寄せられた数々の棋士のエピソードより。
森内流が四段になって間もない頃だったかと思うんですが、将棋連盟の四階エレベータホールにある俗称老人席にてたばこをプカリと吹かしておりましたら、エレベータ脇にある細長あーいガラス窓から、先崎流、羽生流、森内流が連れだって出て行くのが見えまして、ありゃりゃ、確か今日はその三人のうちの二人が対局者同士であったよなー、なして夕食休憩に一緒に行くのかなー、と思い切り不思議になっちゃったことがありました。気がついたら、私めは三人を尾行して連盟近くのとある洋食屋さんに入っていました。店の端っこの方でとりあえず当日のおすすめメニューを頼んでひっそりとしていたのですが、めざとい先崎流にたちまち見つかりまして、「おや、中野さんじゃありませんか。今日はまたどうしてこの店に。ははあ、さすがに鼻がききますねえ。どうして対局者同士が一緒に仲良く食事なんかするのかと思って確かめに来たんでしょ」と、言われて、いや、あの、その、ま、ぐーぜんですよ、としどろもどろになったことがありました。ストーカーして分かったことは、本当に、彼らは仲がいいんだということでした。
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森内俊之九段と先崎学九段が四段になったのは1987年のことなので、3人とも17歳の頃のこと。
羽生善治四段(当時)からすれば、ようやく同じ年の棋士の仲間ができたということになる。
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三人は森雞二九段の研究会でも一緒だったので、旅行も一緒に行っている。
1989年→超強力新鋭軍団四国旅行
1990年→森研究会七人旅
1992年→羽生善治棋王(当時)の海外旅行
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このようなこともあった。
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しかし、棋士同士のこのような友情が、そのままの形で続くことはないことを、棋士自身が一番よく知っている。
先崎学八段(当時)は2005年の将棋世界で次のように書いている。
闘いの場数が少なかったこともあってか、仲良く海外旅行に行ったりもしていた。対局の昼休みに一緒に飯を食ったりもした。将棋のために様々な犠牲を払った者同士の連帯感もあったかもしれない。私も含め、皆実に仲が良かった。もっとも棋士というのはそういうものだ。いずれ闘うと分かっているからこその友情というものは当事者しか分からない。
→先崎学八段(当時)「すべてはふたりが変えたのだ。あの時から将棋界は変わっていったのだった」
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昨日の記事中で、大山康晴十五世名人が「棋士同士が親し過ぎてはいけない」と述べているが、戦いを経るにつれ、自然と親し過ぎない関係に変わっていくところが、羽生世代の素晴らしいバランス感覚だと言えるだろう。