将棋マガジン1984年1月号、内藤國雄九段の「阪田流向飛車」より。
明日は勝つ
「昨日の我に今日は勝つ」
これは美空ひばりが、何かの対談の時に好きな言葉として述べていたもの。
あれ程の歌手でも舞台に出る前は不安になって、そんな時「昨日の自分より今日の自分の方がうまくなっている筈だ」と自分に言い聞かせ安心させるということです。
いい言葉だと思います。しかし努力している人だけが言える言葉ですね。
私はこれを、次のように言い換えて自分の言葉としています。それは―
「今日の我に明日は勝つ」
今日は敗れても、明日は勝つ。
明日は強くなる、だから今日の敗北にもくよくよすることはないという意味です。
要は一歩でも、いや半歩でもいいから絶えず前進し、途中しくじっても悲観しないということ。
悲観からは、いいものは何も生まれてきません。阪田三吉は敗れても悲観せず”明日は勝つ”と発奮します。そして30歳代半ばでプロ入りし、打倒・関根の念願を果たしました。
阪田流向飛車
阪田三吉は人真似を極端に嫌いました。
人真似をするには余りに、誇りが高すぎたといった方がいいかもしれません。
初手の端歩突き、角頭の歩突き等奇想天外なことをやってのけます。
しかしこれらは突飛すぎて実を結びませんでした。
袖飛車と向飛車(阪田流)、阪田王将独創といえるこれらの戦法は今でも生きています。いずれも見かけることは少なく、マイナー戦法といっていいと思いますが、とにかく今後も生き続けるに違いありません。
私が稀に用いる他、やはり稀に用いる棋士は少数しかいませんが、将来もこういう形で、つまり変化戦法の一つとして生き残ると思うのです。
(以下略)
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美空ひばりさんのような歌手の場合、勝ち・負けという結果が目に見える形ですぐには現れない世界。
だから「昨日の我に今日は勝つ」がピッタリはまってくる。
ところが、棋士の場合は負けた日に「昨日の我に今日は勝つ」と思っても冴えない。やはり内藤國雄九段が書いている通り、「今日の我に明日は勝つ」のほうが落ち着きが良い。
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「昨日の我に今日は勝つ」は、柳生新陰流政党第二世・柳生宗厳(1527-1606)による言葉で、柳生新陰流の奥義。
元の言葉は「一文は無文の師、他流勝つべきに非ず。昨日の我に、今日は勝つべし」。
「一文は無文の師」は、たった一つの文字しか知らない人でも、全く文字を知らない人からすれば師。何かの分野で自分より僅かでも優れている人がいたら、その人は自分にとってその分野での師となりうる。 誰にでも長所短所があるけれども、他人の短所をあげつらうのではなくて、長所を見てそこから謙虚に学びなさい、という意味。
「他流勝つべきに非ず。昨日の我に、今日は勝つべし」は、他人に勝ってもそれは相対的なこと、勝ったとしても自分が本物になっているかどうかという尺度にはならない。それよりも、自身を磨いて日々高めていくべきである、という意味。
なかなか素晴らしい言葉だと思う。
この言葉を実践している多くの棋士の姿が思い浮かぶ。
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柳生新陰流の剣術的な教えは「相手の動きを引き出し、それに縦横に応じて勝ちを制する」というもの。
具体的には相手に先に仕掛けさせる。
将棋でいえば、大山康晴十五世名人の将棋そのもの、あるいは森下システム(相手で出方に応じて自陣の矢倉の駒組みを決める)、あるいは振り飛車の敵の力を利用した反撃・反発。
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柳生宗厳の子が徳川将軍家の兵法指南役・柳生宗矩。
小説や映画には欠かせない人物で、東映映画『柳生一族の陰謀』では萬屋錦之介さんが、『魔界転生』では若山富三郎さんが演じている。