将棋マガジン1985年6月号、川口篤さん(河口俊彦六段・当時)の「対局日誌」より。
この日、米長は棋王位を失った。
新春早々、十段位を奪って四冠王となり、順位戦もトップを争っていた頃と比べると、今の米長は別人のようである。
どうしてこうひどく落ち込んでしまったかといえば、大方は対局過多を理由として上げるだろう。私もそれをまちがっているとは思わないが、他になにかドッと疲労が出る、たとえば心の張りを失うような出来事があったのではないか。
それは順位戦で中原が桐山に勝ったのが原因だったように思える。つまり、そこで名人挑戦者の望みを断たれ、以後将棋がおかしくなり、王将戦、棋王戦を連敗したというわけだ。
芹沢の言葉を借りて言えば、名人位に対する想い、とはそれほどのものである。
順位戦の最終戦が終わった後の打ち上げの席で、米長に負かされた森安が悪酔いしたこと、勝った米長の方も、二次会で、「なぜ将棋の神様は俺を名人にしないのか」と嘆息したこと等は、すでに新聞や雑誌によってご存知であろう。これだって、名人位に対する想いの表れである。もし、森安が十段戦や王将戦の挑戦者になり損ねたのだったら、これほど嘆きはしなかった。
名人戦七番勝負は、まさしく氷山の一角である。水面下に秘められたドラマは数限りない。だからおもしろいのは当然なのだ。谷川・中原の対決、これで世間が湧かなかったら、将棋界もお終い、と思っている。
(以下略)
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この年のA級順位戦最終局、中原誠王座が桐山清澄九段に敗れていれば、結果的には、森安秀光八段、森雞二八段、中原誠王座、桐山清澄九段、米長邦雄四冠、勝浦修八段の6人が5勝3敗となり、6者プレーオフとなっていた。
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米長邦雄永世棋聖は、この年の1月初旬に四冠(十段、棋聖、棋王、王将)となったが、3月5日に王将戦で中原誠王座に敗れ王将位を失い、3月22日に桐山清澄九段に敗れ棋王位を失っている。順位戦最終局が行われたのは3月11日だった。
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「これだって、名人位に対する想いの表れである。もし、森安が十段戦や王将戦の挑戦者になり損ねたのだったら、これほど嘆きはしなかった」
名人戦主催紙以外の新聞社担当者が見たら気を失いそうなことが書かれているが、この当時はそれほど名人の地位が特に重く見られていたということであり、順位戦偏重の制度・気運だったということになる。
読売新聞社が名人戦を超える竜王戦を新しく企画したのも、このような背景があったからだと思う。
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米長邦雄永世棋聖が名人位を獲得するのは、これから9年後、1993年のことになる。
翌1994年、その米長名人から名人位を奪取するのが羽生善治竜王。1985年のこの頃はまだ14歳で奨励会三段。