将棋マガジン1985年9月号、米長邦雄十段(当時)の「本音を言っちゃうぞ! 第13回 芹沢博文九段」より。
米長 芹沢はくぶんはね、沼津出身の元、天才(笑)。将来を嘱望されてね、高柳敏夫先生も内弟子にとった当時は、いい弟子に恵まれた、よき後継者を得た、と錯覚をしておられたのではないだろうか(笑)。まあ師匠もそんなふうな目でみたし、周りの者たちもことのほか芹沢少年の将来性を買っておったんだな。そのあらわれとしてね、”東西少年の一騎打ち”なんて企画もあって、西は加藤一二三、東は芹沢博文、確か初段同士くらいだったと思うけれども、神武以来の天才といえど東の大器、芹沢にはハッキリ優位に立つということはできなかったんだな。そのくらいの天才少年であった。
で、その期待どおり彼氏は順調に昇段していって24で八段になった。
しかしながらこの男は、将棋だけでなく他に才があり過ぎた。これが彼氏の将棋にとって、あるいは人生にとって幸なのか不幸なのかはね、誰にも分からない。本人すらも分からないことである。
彼氏は十代前半にね、すでに麻雀を覚えていて、雀荘に出入りしておった。普通は内弟子の者が雀荘に出入りするなどというのは考えられないことだけれども、大器芹沢であればこそ、それは黙認されておったようだ。
だいたい男は遊びで崩れることはないんだな。崩れるとすればそれは本人のミミズのような生き方、その精神、それが男をダメにするのであって、男が遊ぶことによって才能がダメになる、その人間がダメになるなどということはあり得ないんだよ。まあ、こういう点では高柳先生も芹沢さんも俺も、ある部分では共通した考え方で、だから芹沢少年のそうしたことは自由であったともいえるわけだ。で、そこの雀荘で芹沢はくぶんに痛めつけられた老人、かわいそうな老人に娘が二人いてね、その長女を麻雀の借金のかたとしてとったのだな。それが今の和子夫人である(笑)。
しかし、最近では彼氏の一番の、とっておきの自慢の娘が大野君にとられてしまってね(笑)、このときは気が狂わんばかりの嘆きようだった。今はだいぶ落ち着きを取り戻したようだけれどもね。
それから彼氏はね、非常に数多くの本を読んだ。推理小説も読んだし親鸞も読んだ。もちろんビッグコミックは欠かさず(笑)。いろいろなジャンルのありとあらゆるものを読んだ。
それから、競輪をやり、競馬をやり、博打をうち多額の借金を背負って徹底的に遊んだ。
彼氏は、勉強とか蓄財ということが人間を大きくさせる、成長させるのではなくて、物をどんどん捨てることによって大きくなると考えたんだな。だから金も遣い、体力も使い、時間も費やして、自分のやってきたことがそのまま自分の財産になるように、いろいろなことをやってきたわけなんだ。
どんなに借金をしたってだね、俺が将棋さえ勝てばこんなもん、なんでもねえや、と。これで人生がうまーく回転しておった。
(中略)
俺は西武新宿線の沼袋というところに16から24歳まで8年間下宿していたのだけれども、すぐ隣の駅が新井薬師前で、そこのアパートに芹沢はくぶんは新居を構えておった。当然、遊びまわっとるわけだな。あるとき、山口英夫六段の奥様から芹沢夫人に電話がかかってきた。「うちの主人は3日も帰ってきません。こういうときに妻としては、どうしたらよろしいでしょうか」と。応対にでた和子夫人は「まだよろしいですね、うちは1週間目です」。それで山口夫人がホッとして円満におさまった(笑)という話がある。まあ、こんな風な生活をしておったんだな。
それで、あるときにだね、まだ純情であった米長少年が(笑)、当時の俺は坊主頭でね、学生服しか着たことがなかった。だから今の私を想像してもらっても困るんだがね。その米長少年が芹沢家に押しかけていって意見をしたんだな。「オメエはそれだけの才能がありながら何故もっと真剣に将棋に打ち込まんのか」とね。今の俺とはまるっきり違う人間だろ(笑)。「あんたはよくねえ、奥さんが泣いとるじゃねえか」と意見をしたわけだ。
しかし、そのときの芹沢和子夫人の答えはだね、「うちの主人は、止まっちまったらダメ。止まるということは死ぬということです。だからなにをしていてもとにかく動いていてくれさえいれば、それは主人が生きている、という証だから、私はそれで充分満足です。ですから、そういうふうなことは気にもとめません」と彼女は俺に言ったんだね。で、俺はああ、素晴らしい奥さんだ、と思った。なるほど、いい夫婦でね、そんなところへ若造がだね、お説教なんかに行って申し訳なかったと。そのお詫びのしるしにだね、そのマンションの玄関のところにウンコをしておいてやった(笑)。で、後で電話をして「よく見ておいてくれ」と言ってね、それを奥さんが見に行ったらすでにひからびておったそうである(笑)。
(中略)
それまでの将棋というものは、個人で研究していたものだったけれども、俺が四段になってしばらく経った頃、共同研究グループというものが流行りはじめたんだ。
山田道美、関根茂、宮坂幸雄、富澤幹夫といったメンバーでは打倒大山のね、四間飛車対策を研究しておった。有名な5七銀左と上っていく戦法、そういうふうなものがいろいろ研究されていたようでね、そのグループに中原三段なども出入りを許されて勉強していたんだな。
一方、芹沢博文、北村昌男という、当時の関東の若手の、まあ、リーダーというのかな、将棋もそうだけれども、人生を広く楽しんで、生を享受しようといういき方で若手を引っ張っていったのがこの二人だった。その二人が中心となった研究会に、大内、勝浦、米長なんていうのが入ってきたんだね。そんなところへあるとき、中原誠三段が見習いとしてやってきた。そして両方の研究会に出入りしていた中原誠三段が言うに、世間の評判は、理論の山田グループ、理論無視の芹沢グループということであったけれども全く逆で、芹沢グループの方はあくまで将棋の理論というものを追求していたのに対し、山田グループというのは実戦が第一、実戦主義であったのには驚いたと、こう述懐している。
芹沢研究会というのはね、平素の言動とは裏腹に、将棋の理論ということに対していろいろ意見を述べあっていたんだ。まあ、私の方は吸収する一方だったけれども、たいへん参考になった。それまで俺は、将棋と人生には理論なし、と思っていてね、まあ、今でもそうなんだけれども、やはりたいへん参考になった。
で、この研究会で俺は芹沢さんから「君は振り飛車をやめたまえ」と言われたのだな。この一言は、今までいろいろな一言があったけれども俺の人生にたいへん大きな影響を与えた一言だったね。転機になる一言だった。で、しばらく考えた末に、それまで振り飛車一辺倒だった俺がぷっつりと振り飛車をやめて突如、居飛車一辺倒に切り替えてしまったんだな。そういう意味では俺は芹沢はくぶんには将棋の技術面、考え方で非常に大きな影響を与えられたね。
(中略)
天才の名を欲しいままに生きてきた芹沢はくぶんだけれどもね、ところが屈辱を味わうことになったんだな。
Aクラスに入った年に彼氏は出だし3連敗。前にも言ったけれども、高柳一門はAクラスに入ったらまず3連敗するという掟、決まりがある(笑)。中原誠がそう、田中寅もそう。そういうことになっとんだね。で、その年はあとを勝って残って、次の年に出だし2連勝したんだな。去年、3連敗して残ったくらいだから、2連勝なら挑戦者か、と思ったのだけれども、残念デシタ(笑)。落っこっちゃったんだ。それは陽が東の方からどんどん昇っていくといった趣のあった彼氏の人生からみると、それがようやく西に傾く、あるいは傾かないまでも運気が少し落ちてきているということに本人も気が付いたんだろうね。しかも、その落ちるに当たってだね、大野源一対塚田正夫という将棋があるんだな。その一局で大野先生が勝ったら塚田先生が落ちるという状況でね、そして大野先生が必勝形になったんだ。
普通ならそのまま大野先生が勝って塚田先生が落ちる、ということになるはずだったのだけれども、そこに劇的な玉の素抜き、という手があったんだな。
A図がその局面。今、大野八段が▲3三同香成と馬を取ったところ。
A図以下の指し手
△2八飛▲3一角 まで、塚田九段の勝ち。で、彼氏はね、そのことを塚田-大野の関係と若造の芹沢の関係からみて、あれは八百長ではないけれども、わざと抜かれたのに相違ない、と、そう思い込んだんだな。ずーっと10年も20年も思い込んだ。
彼氏はそのときからね、将棋指しあるいは将棋そのものに対して不信感というかな、あの尊敬する大野先生、塚田先生、そういうふうな人達をみる目が変わってしまったんだ。
このことは、彼氏の人生の歯車にたいへんな狂いを生じさせた。もしこのときにこんな出来事がなくて、仮に全敗でもいいから徹底的に闘って落ちたものなら次の年には彼氏の才能をもってすればAクラスに復活したろうと思う。そして、いくらでもタイトルを取るチャンスもあったのだろうけれども、劇的な玉の素抜き、彼氏の人生を変えさせたポカだね。
それからは、彼氏はやや、将棋指しとして、将棋を指して生きていくということから若干違う方向へ動いていくようなふうになったんだな。
(中略)
そうはいってもやはり天才芹沢、本来は強いわけだからね、それから数年経ってAクラス復帰、出来るや否やという局面になったんだ。
その将棋が本局(1970年3月13日B級1組順位戦 中原誠七段-芹沢博文八段)。
大阪で対局している大野-米長戦で大野勝ちならそのまま大野先生が昇級、米長勝ちの場合は本局の勝った方が上がるという状況だったんだな。で、大野先生と闘う3日前、中野に杉の子という寿司屋があって、そこでごちそうになっての帰り道、タクシーの中でだね、芹沢さんは「勝負というものは、目の前に居る人間を幸せにしてやることが一番いい」と、こう言ったんだ。しかし俺は「私は必ず勝ってくる。大阪の大野先生には必ず勝ってくるから、あなたが東京で勝ちさえすればAクラスに入れますよ。俺はどんなことがあっても勝ってきますからね」と言って、それで別れたんだ。
彼氏は、どう受け取ったのかは知らんけれどもね、俺の勝負に対しての考え方は、そういう勝負は絶対に勝たなくてはならん、ということだから、大阪へ行って全力投球をして悪い将棋を勝った。拾わせていただいた。一方、東京の方はどうかというと、12時ちょっと過ぎまで芹沢さんが優勢で、必勝形になったんだな。で、あともうちょっとで勝つ、というときにだね、ひょっと部屋の隅を見たらそこに東公平氏が深刻そうな顔をしてうずくまっておるのだねえ。まあ普段でも深刻そうな顔をしておるのだけれども、あの人は(笑)。それが目に入ったんだな。
大阪の対局は大野先生が勝てば60歳でAクラス復帰だから、その将棋を載せることになっておった。しかし、もし俺が勝ったら大野先生はタダの人になっちゃうから、そのときは中原対芹沢の将棋を載せることになっておったんだ。
その観戦記担当の東公平氏が深刻そうな顔をしてうずくまっているのを見て、芹沢さんは「ああ、大阪は米長が勝ったか勝ちそうになっておるな」と察したんだね。
そうしたらそれまで無心で指していた男が、急に指し手が乱れてきちゃった。それで大ポカがでた。
一方の中原はそんな状況には気が付かない。一切気が付かない。それじゃあ中原は全然知らずに将棋のことだけを一所懸命やっていたのかというと、これがそうではないんだね。
(中略)
で、中原誠が勝ったのだけれども、芹沢さんが駒を投げたときにだね「負けました」とは言わなかったんだな。「おめでとう」と言った。そうしたら中原は「ありがとうございます」と言ったんだ。このやりとりをみると中原はすでに、勝った方が上がるということを知っていたんだね。それはどうしてかというとこの二人の闘った将棋というのは名局でね、こういう場面でもって二人が一所懸命闘って名局が生まれるということはだね、勝った方が上がれるように神様が仕組んでおるんだね。だから将棋というのはいつでも全力投球して、いい将棋を指すということを心掛けておくと必ず運が向いてくる。
ともかくこれだけの名局を指したら、勝った方が上がれるということを二人とも、分かっておったんだね。芹沢さんはそこに東公平という男の姿を見ちゃった。で、手がみえなくなった。中原はそれを見なかった。無心で頑張った。まあ、その差が最後に出たのかもしれない。
このときの彼氏はね、大野先生が王様を素抜かれたということよりもっとショックを受けたはずでね、新婚間もない芹沢はくぶんが毎週日曜日に自宅に呼んで将棋を指してやった弟弟子。これ程かわいがって仕込んだ中原と、Aクラスに上がる大事な一番を闘わなくてはならず、しかも負かされて自分が上がり損なう、先を越される。これがまた、彼氏のダメ押しになったんだね。で、それから再びAクラスを踏むということはできなかった。
それではもう全然ダメであるかというとそうではなくてね、ここ数年間でたった1回だけ、本当の自分の将棋をみせてやろうと世間に公言して闘った将棋がある。これが七段のときの谷川との将棋。谷川浩司といえば当時から名人間違いなしといわれていた大器でね、それじゃあというので芹沢はくぶん元・天才がだね、俺の本当の力をみせてやろうというんで3日間禁酒をして、仕事もキャンセルして、精進潔斎してたち向かったのがこの将棋。谷川浩司との将棋。素晴らしい将棋。これも名局である。
それから芹沢さんには藤沢秀行という兄貴分がいてね、これは私が最も尊敬する人物。
で、その秀行先生の生き様がね、常人離れしておるんだな、これが。まあ、芹沢はくぶんの述懐によれば”藤沢秀行と出会ったのが俺の人生の狂いはじめであった(笑)”ということらしいんだがね。しかしながら、それ程魅力のある男で、まあ、秀行、芹沢という先輩にひき連れられて競輪に行き、博打を覚え、酒を呑み、それで物の考え方をいろいろ教わった。だから俺の生きた師匠なわけだな。
で、あるとき将棋連盟に刑事が来たのだな。芹沢博文はいるか、と。はくぶんは、どの事件が発覚したのかとあわてて逃げ出そうとしたのだけれども(笑)、刑事が将棋連盟まで来るようであってはね、もはや逃げ隠れはできない。度胸を決めて会ってみたんだな。で、どの事件を持ち出すのかなあ(笑)と思っておったところがだね、その佐藤という刑事、捜査二課の主任だね、が言うに「実はきょうお伺いしたのは愚息、義則が将棋が好きで、プロになりたいと言い出し、師匠は芹沢先生をおいて他にはない、と申しておるのですが先生、一つ、なんとかしていただけないでしょうか」。
とたんにはくぶん、態度が変わっちゃってね(笑)、刑事の前でふんぞり返ったのはそれが最初で最後であったろう。
(6月3日収録)
(つづく)
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中原名人に聞く
あの将棋は途中から混戦になって、終わったのもかなり遅い時間だったと思います。まあ、名局かどうかは分かりませんけど。
対局中は大阪の結果はもちろん知りませんでしたし、東さんのことも気がついていませんでした。
ただ、これは何の根拠もない勘なんですが、勝った方が上がれるような気はしていましたね。勝負の最中で、神経が敏感になっていますからこういう勘というのは意外に当たることが多いんです。
対局のときは、私の方は小さい頃から教えていただいた兄弟子ですし、目標にしていた人だから、ただ全力でぶつかるだけでしたので特に指しにくいというような意識はありませんでした。
しかし、芹沢さんはやはり指しにくかったのではないかと思います。
最近、田中君(寅彦八段)や島君のような弟弟子と指してみて、ようやくそういう気持ちが分かってきたような気がします。(7月4日談)
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芹沢博文九段は、解説などでも話すことが面白く、書くことも面白く、明るく洒脱な雰囲気で、非常に人気があった棋士。
後年、『アイ・アイゲーム』などのテレビ番組にレギュラー出演するようになったが、今の時代に当時の年齢で活躍していたなら、さまざまな番組に出演依頼されていたと思う。
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「高柳一門はAクラスに入ったらまず3連敗するという掟、決まりがある」
芹沢博文八段、中原誠十六世名人、田中寅彦九段と、高柳敏夫九段門下でA級になった棋士は、この時点まで皆、A級1年目に出だし3連敗していた。まさに二度あることは三度あるといった現象。
この反動からか、高柳門下の島朗九段は1994年にA級1年目で出だし3連勝している。
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大野源一八段-塚田正夫九段戦の王手放置については、芹沢博文九段が米長邦雄永世棋聖にそのように考えを述べていたのか、あるいは米長永世棋聖の推測なのか、どちらかは分からない。
いずれにしても、わざと負けるならもっとわかりづらいような負け方をするわけで、わざと玉を抜かれたと考えるのには無理がある。
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1970年3月13日B級1組順位戦の大阪で行われた大野源一八段-米長邦雄七段戦が米長哲学誕生の一局。
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捜査二課刑事の「実はきょうお伺いしたのは愚息、義則が将棋が好きで、プロになりたいと言い出し、師匠は芹沢先生をおいて他にはない」の義則は、佐藤義則八段のこと。
佐藤義則八段は2014年の『NHK将棋講座』で師匠の芹沢九段の思い出について書いている。
→明るく冗談が好きだった芹沢博文九段 弟子が語る師匠の思い出(NHKテキストView)
(つづく)