昨日の続き。
将棋マガジン1985年9月号、米長邦雄十段(当時)の「本音を言っちゃうぞ! 第13回 芹沢博文九段」より。
方向転換したのちの彼は何をしたか。彼氏は、あり余る才能を生かしてまず、国技館を借り切って将棋の日というものの催しを思い立ったんだな。それまでの将棋の会というのは、会費をいくらかとって、お寺の本堂を借りて何十人か、何百人くらいの大会、というのが普通だったのだけれども、いっぺん、国技館を満杯にしてみせようと思い立ったわけなんだ。第1回の将棋の日に、NHKの協力を得て蔵前の国技館を満杯にしたのだな。これだけの企画を立て、それを実行できるのは芹沢はくぶんをおいて他にいない。
それから次に彼氏は、海外に将棋の対局を持っていった。それが棋王戦の第1局で、それまでは海外での将棋対局なんていうのはかつてないことでね、そういう企画をうち立てて実行できることが彼のよさ。
いままでの棋士はね、どうしても将棋盤から離れられなかった。将棋盤があって、その周りに座布団があって脇息があって、記録係の机がある。将棋指しはいつも盤の前に座っている、あるいはちょっと歩いても畳一枚くらいしか離れられない。そういうふうに将棋というものでこり固まっている人が多いこの集団の中で、将棋というものを全くとっぱらってしまったというわけだね。全然違うところからものをみることができる男。だから彼氏は将棋の日に国技館を借り切ることなんてできたし、ハワイへ将棋を持っていくこともできた。しかし、彼氏は優秀な頭があったけれども、その考えを支援する男に恵まれなかった。そこが彼氏の一番不幸なところだった。
芹沢博文が最も尊敬する男は、大山康晴さんなんだね。しかしながら大山さんは好き嫌いがある。口には出さなくとも芹沢とはうまが合わないように思う。ここに悲劇がある。
彼氏はよき師匠に恵まれ、よき弟弟子にも恵まれておるから、彼氏のそういった才能を一門でもってもっとバックアップしてやれば彼氏の存在価値というものはもっと光り輝いておったろうと思うね。
彼氏が最も信頼している男は誰か。それは中原誠である。しかし、彼氏は同門であるけれども、盤面以外のことに一切ノータッチの主義。それは見事である。
二番目の男は誰か。あるいは俺かもしれない。私は彼氏自身のものの考え方、行動がよく分かるからできるだけのことはしてやりたいと思うが、いかんせん俺にはそれだけの力がない。まして、自分自身が厳しい闘いの中に置かれている年代だから、彼氏の考え方や行動がよーく分かりながらもそれを応援するゆとりがなかった。それが俺にとっても悔やまれることであるけれどもね。
もう少し年代が違っていたら、何か状況がちょっとでも違っていたならば、彼氏の打ちたてた企画とかものの考え方がもっともっと支持されて、将棋界にとってかけがいのない人間となっていたろうと思う。
彼氏は支持する人間と嫌われている人間との差が、あまりにも激しすぎる。まあ、”セリ”というのはアクが強いから仕方がないのであろう。
(中略)
ということで、彼氏の能力、持ち味、才能といったものも、将棋界ではさして開花することがなかったのだけれども、しからばどうするか。では将棋界とは全然違うところで花を開かせてみようと、彼氏は随筆、ものを書く、テレビに出る、チョメチョメ先生だな。CMに出る、あるいは講演とマスコミに打って出た。
今の彼氏の収入というのは相当なものなんだろう。少なくともAクラスの中間よりは上だろうと思う。収入で人を測るわけではないけれども、人間というのは仕事に見合ったお金が入ってくるものでね、やはりいつかまわりまわってくるものなんだね。将棋界以外の彼氏の仕事への評価というのは、それだけのものと評価されているんだな。
したがって、近頃の芹沢はくぶんをみていると、将棋はタイトルを伺おうかというふうな気迫も失せてしもうて、棋士としては、もの足りなさを感じているファンも多いかもしれない。残念に思う人が多いかもしれない。
しかし、今の彼氏はね、彼氏のその才能を一番発揮できる環境にあってね、自由にのびのびとやっていて、だから彼氏は今が一番幸せなんだろう。
ただ、その幸せな彼氏がね、それまでの無理が祟って血を吐く、胃を切る、ということがあって、非常に心配している。で、やはり陽はやがて西に沈む。この西に沈むときにどういうふうにすべきか。ここが男の人生、女でもそうだろうけど、一番大切なところであってね、俺は人生というのは60からが勝負だと思っている。60からどう生きるか、というためにね、60までに何をすべきかがあるんだと思う。これが俺の人生哲学の一つである。
(中略)
で、これ(1981年12月25日 昇降級リーグ戦1組 対谷川浩司七段戦)に勝ってだね、彼氏は全ての炎が燃え尽きた(笑)ようにみえる。けれどもこれは、彼氏が、自分自身がそう感じていることであってね、頑張りさえすればまだまだ将棋は指せる。しかしながら俺のみるところでは、無理をしないでこのまま生きたほうがいい。そして、やがてね、芹沢はくぶんの意見に共鳴する者があらわれるかもしれない。そのときにまた、連盟の雑事を引き受ければいい。
どうぞ安らかに(笑)
(6月3日収録)
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芹沢博文九段からのコメント
ついに米長も病が嵩じたか、嘘ばっかり言うようになった。
もともと嘘をつく癖のある奴であったが、若い頃はいくらかの自制があり、人達に知られなかったようである。しかし、タイトルを4つもとり、名人をも含め、7つのタイトルをとれるかと思った途端になにか、タガのようなものがはずれてしまったのか、パタパタと2つとられ、今また勝浦八段に棋聖位をとられそうになり、完全に自制心がなくなり、人のことを嘘ついて、自分の劣っているところを隠そうとするのはなんとも哀れな奴である。
米長が言うような立派なことらしきものは一つもしていない。ただ思い上がって、将棋にくっついてそれを利用しなければ生きていけない哀れな将棋指し、それが私である。
一つときは何かを夢見たが、米長、中原なんぞにちょうどよい踏み台とばかりとんとんと気持ちよげに通り越されては、このときをもって我が将棋は終わりである。
あの出来損ないの二人だけにでも、一言も口をきかなければもう少し、楽に生きられたのではなかったかと思うと、我が不明を恥じるのみである。
人のことをああだこうだ、駄法螺を吹く暇があったら、テメエのことを本気で考え、なんとかなったらどうだ。(7月10日談)
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芹沢博文九段の全く遠慮のない、歯に衣着せぬコメント。
話し言葉を文字にすると、実際よりもキツイ感じになることが多いが、芹沢九段の話し口調を思い出しながら読み直しても、なかなかキツイことが述べられている。
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「芹沢博文が最も尊敬する男は、大山康晴さんなんだね」は、米長流の一種独特な言い方で、全く反対のことなのか、本当のことなのかはわからない。
大山十五世名人が芹沢九段を快く思っていなかったのは事実で、中原誠十六世名人をはじめ、多くの人によって語られている。
確実に言えることは、芹沢九段は木村義雄十四世名人を限りなく尊敬していたということ。
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芹沢博文九段と米長邦雄永世棋聖、晩年は不仲だったという人もいれば、晩年も仲が良かったという説もあり、本当のところは本人同士にしかわからないところなのかもしれない。