「勝負師がすぐれた理論を持つのは、かえって弱みになるのではないかと思います」

将棋マガジン1984年10月号、川口篤さん(河口俊彦六段・当時)の「対局日誌」より。

 本誌9月号米長邦雄十段の、「本音を言っちゃうぞ!」はおもしろかった。

「彼氏(芹沢)は、勉強とか蓄財ということが人間を大きくさせる、成長させるのではなくて、物をどんどん捨てることによって大きくなると考えたんだな」

 などは、芹沢のではなく米長の論理であるが、そういう考え方もあるのか、と感心させられる。なんというか、将棋だけでなく、人生も目のつけどころがちがうのである。米長は大山から多くの影響を受けているはずで、将棋の考え方、人生の見方など似かよっている点が多いはずだが、その哲学を口に出すときは、全然別なものになっている。

 米長をよく知っている人が言うには、

「勝負師がすぐれた理論を持つのは、かえって弱みになるのではないかと思います。米長さんを見ているとそう感じますね。たとえな「貸し借り論」(人生は貸し方に回らなければならぬ)も立派な考え方ですけれど、言ったことを実践しようとして、ずいぶん窮屈な思いをしていると想像するんですよ」

 なるほど、大山、中原はなにも言わぬ。黙々と将棋をがんばるだけである。対して升田、米長は、かくあらねばならぬ、の理想の旗印をかかげて戦う。それはたしかに不利であろう。すくなくとも、疲れることだけはたしかだ。

 ところで、米長の文を読んで感じたことはもう一つある。それは、なぜおもしろいか、という点である。

 おそらく、おもしろい原因は、米長が芹沢のことをよく知っている、歯に衣着せずに物を言える親しい間柄、という二点にあるだろう。書くべきものを持っていず、棋士に気ばかり遣っている。昨今の記事、観戦記がつまらないのは当然なのである。

(中略)

 おやつに西瓜が出た。みんな大好物とみえて、いっせいに横を向いて食べはじめた。一時休戦といったムードが対局室全体にただよう。

 第二対局室で対局中の芹沢が、大広間の手前の間で指している私のかたわらに来た。米長も来て「なにか書いたそうですね」と芹沢に言った。

「ああ、勝手なこと言わせてもらったよ」

 芹沢が笑いながら答えた。前号のコメントについてだが、それから二言三言冗談を言い合い、米長がニヤリと笑って自分の席に戻っていった。独りになった芹沢は「あの記事はもう直せないのか」

 特別対局室は、午後から大山-大内戦(名将戦)が始まり、早くも大山が勝った。いつものことながら、なんということなしに負かしてしまう。

(以下略)

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ここで出ている理論とは、米長哲学に代表される哲学のようなものであり、このような哲学を公言した棋士は、米長邦雄永世棋聖が現在のところ最後だと思う。

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「なにか書いたそうですね」

「ああ、勝手なこと言わせてもらったよ」

その後に続く二言三言の冗談の言い合い。

非常に見習いたい大人の対応だ。

とはいえ、芹沢博文九段と米長邦雄十段(当時)の心の奥底は外からはわからない。

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「あの記事はもう直せないのか」

普通に読めば、芹沢九段が言い過ぎたと思いそのように言ったと考えられるが、米長十段の書いた記事に対して言っていると解釈することも僅かながらできて、読み方が少し難しい。

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「書くべきものを持っていず、棋士に気ばかり遣っている。昨今の記事、観戦記がつまらないのは当然なのである」

河口俊彦六段(当時)のこのような思いが積み重なって、1987年の将棋ペンクラブ設立へと繋がる。

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おやつにスイカ。

大部屋で皆がスイカを食べているシーンというと、思い出すのは映画『仁義なき戦い』シリーズ。

夏の時期、組の事務所で組員が食べているのが決まってスイカ。

たしか、『仁義なき戦い 完結篇』で新しく結成された天政会の幹部連(各組の組長クラス)が集まる場でもスイカが配られていたと思う。

組長も組員も食べるスイカ。

怖い顔をした人達が桃やみかんを食べていたのでは映画的に絵にならないが、スイカなら怖い人達が食べていても絵になるということなのだろう。

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しかし、時代は昭和20年代になるが、広島ヤクザ抗争の記録を調べると、敵の組員を殺しに行く使命を与えられた組員は、殴り込みに行く直前の組事務所で、みかんや桃などのフルーツの缶詰、またはみつ豆の缶詰を食べさせられたという。

これは、清酒がなかなか手に入らなかったという事情もあったのかもしれないが、殺し→逃亡→逮捕→刑務所のコースで甘い物を食べられなくなるから、という配慮だったとも考察されている。