近代将棋1982年7月号、小林勝さんの「棋界パトロール 振り飛車をめぐる戦法の変遷」より。
現在、棋界はアマプロを問わず「居飛車穴熊』なる戦法が大きく幅を効かせている。その隆盛ぶりは、居飛車対居飛車における『矢倉』戦法と並んで、居飛車対振り飛車の戦いの主流を占めるほどの勢いである。
今月は、振り飛車をめぐる「戦法の変遷」と題し、昭和30年代から現在までの戦型の移り変わりと、その土台となる考え方についてふれていきたい。ちょっと大また気味ではあるけれど、『振り飛車にはイビアナ、これが最善、これしかやらない、これしか知らない」という御人は、特に、是非とも目を通していただきたい。さすれば、わずか30分程の努力で、将棋がもう一回り大きくなる……かもしれません。
さて、1図は、昭和33年第8期王将戦挑戦手合=大山康晴王将対高島一岐代八段戦。
居飛車の高島陣は、”天王山”と言われる5筋の位を占拠し、いわゆる全面戦争での振り飛車陣攻略を目論でいる。しかし、1図をよくよく見てみるに、振り飛車側の玉営の良さがまず目に止まる。そして、高美濃から▲3七桂の起用が実に自然で、以後の戦いでこの桂の活躍が大いに見込まれる。また、互いの角の位置も、後手の角の効きが、先手玉から大きくそれているのに反し、先手のそれは後手の玉頭へとニラミを効かせている。などなど、理屈から言って、どうも、本戦型は居飛車に分がなさそうであり、実際の戦績も芳しいものではなかった。そこで、ジックリ行くのはよしにして、スッパリ切りに行ってはどうかの思想がクローズアップされてくる。
山田定跡
部分的早期決戦策の旗頭となったのは、今は故人となった山田道美九段である。
2図は、昭和40年第24期名人戦挑戦手合=大山名人対山田八段戦(便宜上先後逆)。
図での△5三銀左(先番ならば5七銀左)が、急戦策の眼目手であり、以下、期を見て、△7五歩▲同歩△6四銀と戦端を開いて勝負と出るのである。
本戦法は、振り飛車側に高美濃に組む余裕を与えぬ点と、好位置に頑張っている振り飛車側の角を攻撃目標にしようとしたもので、銀の出足の鋭さを利した、まさに、理論家・山田八段ならではの将棋の組立てである。
また、急戦をネラう戦法として、他にも、右銀を△7三~8四とするいわゆる棒銀戦法や、やはり右銀を△5三~△6四と活用する戦法も流行したが、これらの急戦策はいずれも玉の固さの点で大きな不安があり、実戦的に見て勝つのは大変という欠点がある。加えて、振り飛車側の対策も進歩したことや、先手番ならば効く仕掛けも、後手番となると一手の違いで成功がおぼつかなくなったりなどの事情があって、急戦策の決定版は今だに現われていない。山田道美九段存命でありせばと、残念に思うのは筆者だけではなかろう。
玉頭位取り戦法
持久戦がうまくなく、といって急戦策ももう一つ決め手にかけるとあって、居飛車側は勝負と出「うーん」と唸ったが、窮すれば通ず。昭和40年代に入って、荒法師の異名をとる力戦家・灘蓮照九段が多用していた「玉頭位取り戦法」が、新たに注目を集め始めた。
3図は、昭和44年第13期棋聖戦挑戦手合==大山名人対中原誠棋聖戦(便宜上先後述)。
△3五歩と玉頭の位を占めるのが本戦法の骨子。この位を取ることにより、振り飛車側の理想型を阻止するとともに、中終盤の戦いでこの位の威力を発揮させようとの考えである。本型は、7~8筋方面の戦いで桂香が手に入ることが想定されるが、居飛車側は△2五歩~△2三香や、△2五歩~△2四桂~△3六歩など、位を活かした自然な攻めが期待できる。
3図は、振り飛車側としても相当にうまく立回っている感じだが、何と言っても玉頭の位を張られたうっとうしさは隠せない。
と、今度は「玉頭位取り戦法」の出現により、振り飛車側が頭を悩ませるハメとなった。
囲いから戦法へ
4図は、昭和50年第34期名人戦挑戦手合=大内延介八段対中原名人戦。
後手の中原名人が、2・3・4筋にズラリと位を張ったのに対し、先手の大内八段は、その名も高き穴熊に玉をおさめている。この図、前例の美濃に囲った王様と比べてみれば、位の威力が半減してしまっているの感がある。元来、穴熊囲いの欠点は手数のかかることにあって、そこを急戦によって衝かれると困る意味があったが、居飛車が急戦を捨てて、持久戦の「王頭位取り」で来ればその弱点も相殺され、間合いはピッタリである。「穴熊という囲いを、「穴熊」という戦法にまで昇華した、大内八段を始めとする振り飛車側の工夫により居飛車陣営は再び、被告の立場となった。
この、「振り穴」について付記すると、振り飛車の大御所である大山名人が穴熊を多用するようになった時期と玉頭位取り戦法全盛の頃が一致しているという事実に気づく。また、位取り戦法流行の初期の頃、位取りで、振り飛車をバッタバッタと当たるを幸いなで切りにした西村一義七段が、位取りの流行に火がつくや、大内八段と共に穴熊を連採し、逆に位取りを相手に戦い”穴熊党幹事長”の座に就いたというのも面白いことであった。
(つづく)
* * * * *
振り飛車と居飛車の戦いの歴史。
江戸時代の振り飛車は、受けに徹して、相手の間違いを待つような非常に消極的な戦法だった。
これを革命的に変えたのが、大野源一九段。
戦後、大野流の攻める振り飛車、捌く振り飛車で、振り飛車の概念が大きく進化した。
1950年代後半からは、大野九段の弟弟子の升田幸三実力制第四代名人、大山康晴十五世名人も振り飛車を指し始めるようになり、プロ、アマチュアを問わず、振り飛車が非常に多く指されるようになった。
その頃が、有効な対策がなかった時代→山田定跡→玉頭位取り戦法の時代。
そして、大内延介九段の振り飛車穴熊の採用で、また新しい時代へと向かっていくことになる。
(つづく)