近代将棋1985年1月号、大山康晴十五世名人の「将棋一筋五十年」より。
昭和25年、私は27歳になった。この年に始まったのが、読売新聞の「秩父宮杯争奪・九段位決定・全日本将棋選手権」である。
今の十段戦の前身で”九段戦”と呼ばれたが、始まったばかりなのでタイトル保持者はなかった。トーナメント戦で勝ち抜いた私と板谷四郎八段が、初の九段位をかけて決勝三番勝負を行うことになった。
(中略)
私の▲7八銀から▲7七銀は、いわゆる”やぐら模様”である。この形は私が初めて指したように記憶する。当時は終戦直後に流行した腰掛け銀戦法からやぐら戦法への過渡期で、私が初めて7七銀の構えをとったとき、「じじむさい将棋だ」などの酷評もあったが、私としては一番得意とし、勝率のよいこの戦法をとるのにためらいはなかった。
(以下略)
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「じじむさい」は、年寄りじみていて、むさくるしい、というような意味。
「5五の位は天王山」という戦前まで重要視された格言や江戸時代の二枚銀型振り飛車なら「じじむさい将棋」という印象があるが、戦後すぐの頃に矢倉が「じじむさい」と言われていたのは意外な感じがする。
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矢倉は、口の悪い人からは「辛気くさい将棋」などと言われている。
一方では「矢倉は将棋の純文学」とも言われている。
これは非常に奥が深い言葉で、
- 矢倉が好きで純文学が好きな人→矢倉は将棋の王道だ
- 矢倉が好きで純文学が嫌いな人→かなり迷惑、だから矢倉が誤解をされてしまう
- 矢倉が嫌いで純文学が好きな人→かなり迷惑、だから純文学が誤解されてしまう
- 矢倉が嫌いで純文学も嫌いな人→ただただ難解で、見ても面白さを感じることが難しい
と、人によって様々な解釈が成り立つ。
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大山康晴十五世名人が「やぐら」とひらがな表記しているのは、矢倉は大正時代の頃までは「櫓」と表記されていたので、矢倉と櫓の両方の顔を立てたものと考えることができる。