終戦直後に「じじむさい将棋」と言われていた矢倉

近代将棋1985年1月号、大山康晴十五世名人の「将棋一筋五十年」より。

 昭和25年、私は27歳になった。この年に始まったのが、読売新聞の「秩父宮杯争奪・九段位決定・全日本将棋選手権」である。

 今の十段戦の前身で”九段戦”と呼ばれたが、始まったばかりなのでタイトル保持者はなかった。トーナメント戦で勝ち抜いた私と板谷四郎八段が、初の九段位をかけて決勝三番勝負を行うことになった。

(中略)

 私の▲7八銀から▲7七銀は、いわゆる”やぐら模様”である。この形は私が初めて指したように記憶する。当時は終戦直後に流行した腰掛け銀戦法からやぐら戦法への過渡期で、私が初めて7七銀の構えをとったとき、「じじむさい将棋だ」などの酷評もあったが、私としては一番得意とし、勝率のよいこの戦法をとるのにためらいはなかった。

(以下略)

* * * * *

「じじむさい」は、年寄りじみていて、むさくるしい、というような意味。

「5五の位は天王山」という戦前まで重要視された格言や江戸時代の二枚銀型振り飛車なら「じじむさい将棋」という印象があるが、戦後すぐの頃に矢倉が「じじむさい」と言われていたのは意外な感じがする。

* * * * *

矢倉は、口の悪い人からは「辛気くさい将棋」などと言われている。

一方では「矢倉は将棋の純文学」とも言われている。

これは非常に奥が深い言葉で、

  • 矢倉が好きで純文学が好きな人→矢倉は将棋の王道だ
  • 矢倉が好きで純文学が嫌いな人→かなり迷惑、だから矢倉が誤解をされてしまう
  • 矢倉が嫌いで純文学が好きな人→かなり迷惑、だから純文学が誤解されてしまう
  • 矢倉が嫌いで純文学も嫌いな人→ただただ難解で、見ても面白さを感じることが難しい

と、人によって様々な解釈が成り立つ。

* * * * *

大山康晴十五世名人が「やぐら」とひらがな表記しているのは、矢倉は大正時代の頃までは「櫓」と表記されていたので、矢倉と櫓の両方の顔を立てたものと考えることができる。

 

変形羽生マジック

将棋マガジン1987年6月号、川口篤さん(河口俊彦六段・当時)の「対局日誌」より。

 将棋は小野(敦)が飛車を振って11図のようになっている。振り飛車は得意でないはずだが、羽生は振り飛車破りがへただ、のデータがあるのだろう。

11図からの指し手
▲3七銀△7四歩▲3八飛△1二香▲3五歩△同歩▲2六銀△4五歩▲3五銀△8八角成▲同玉△2七角▲3七飛△4九角成▲4五歩△5五歩(12図)

 後手の△4二金型が変わっているが、これは△5三金から△6三金と玉を固める含み。▲4五歩の仕掛けは、△同歩と取り、▲3三角成△同金で心配ない。△3二金型にくらべて、働いた形なのである。

 第一の見所は、羽生がどのように仕掛けるか、だが、▲3七銀から▲3八飛は、なんとなく師の二上を思わせる指し方。飛車が回るなら、先に▲3八飛だろうし、▲3七銀と出たからには、もう一つ▲2六銀が普通であろう。なんとなくちぐはぐな感じなのが似ている。

 ともかく▲3五歩と仕掛ければ、小野は△4五歩でさばき合いに持ち込もうとする。角交換から、△2七角と打って、小野は「自信があった」という。

 たしかに、△5五歩と突いた12図は、振り飛車がさばけているようである。こういった場面を見れば、まだ将棋を知らない(いやな表現だ)の評も出てこようが、そんなのは羽生の資質となんの関係もない。

12図からの指し手
▲4四歩△3二銀▲3四銀△5六歩▲6六銀△3六歩▲4七飛△5八馬▲同金△5七金▲4三歩成△同銀▲同銀成△4七金▲5二成銀△同金寄▲4七金(13図)

 森安が小野について「体力がありそうだし、ジロリと睨む眼つきに迫力を感じた」という意味のことを書いていたが、本当は、温厚な性格だし、眼つきも、どちらかといえばやさしく、ひ弱な感じがするのである。それが、恐ろしげにうつるのは、森安が不調だからである。

 さて、▲4四歩に、△3二銀。「弱気だったですかね」と小野は首をすくめた。△5四銀と進むに決まっているようなところだが、逆に引いて、弱わげに見せかけて、シンはしっかりしているのが小野の特徴である。へこんでも、△5六歩と取り込めば十分と見たもので、その判断はまちがっていなかった。しかし、その後の指し方がわからなかったらしく、△3六歩▲4七飛のつぎ、△3八馬か△5八馬か迷ったという。

 結局、▲4三歩成を怖がって、△5八馬と過激な方を選んだが、正解は△3八馬だった。

 △3八馬に対し、▲4六飛は、△5三飛と受け、後に△2九馬の桂得を楽しみにして後手よし。だから、△3八馬に▲4三歩成だろうが、△同銀▲同飛成△5七歩成▲同銀△4三金▲同銀成△5七飛成▲同金直△4九飛で後手よし。

 手順中、先手の▲4三同飛成が好手で、小野もそれがあるから、△3八馬をやめたのだが、調べてみると△5七歩成の手順があり、後手が指せる。

 実戦は△5七金と打ち込む攻めがおそく、13図となっては駒損もしているから、後手いけないと小野はあきらめた。あきらめるのが早すぎるようだが、彼は羽生と己れとの、寄せの力の差を考えたのである。

13図からの指し手
△2八飛▲4八歩△2九飛成▲3一飛△3七歩成▲3五角△4四歩▲同角△5三銀(14図)

 もし、相手が羽生でなかったら、小野も粘っただろう。いつもいうことだが、強いと思われていると、ずい分得なのである。逆に強いと思われていた者が、あるとき、なんだ弱いじゃないか、と気がつかれたときの悲哀は相当なものだろう。だから、今名人戦を戦っている二人は、いい将棋を指して見せなければならないのである。

 飛車を打ち合い、▲3五角と打って、羽生は寄せに入る。小野は△4四歩から△5三銀と受けたが、単に△6二銀なら、まだまだたいへんだった。

14図からの指し手
▲同角成△同金▲6二銀△同金▲7一銀△9二玉▲6二銀不成(15図)

 もちろん角が逃げたりはしない。▲5三同角成から▲6二銀は美濃くずしの基本手筋。これで決まった。

 ただし、▲7一銀は▲7一角の方がよく、△7三玉▲8二銀△6三玉▲5四歩ならそれまでだった。局後これに気がついた羽生は、つまらぬミスをしたとばかり、ふくれていた。

 それはともかく、15図も羽生らしい雰囲気は出ている。▲6二銀成ではなく不成が好手で、次に▲8一飛成△同銀▲9三金△同玉▲8五桂以下の詰みを見た一手すきになっている。

 15図で小野はそれを防ぎ、△8五桂と打ったが、これがとんだ尻抜けで、先手玉が一手すきになってなく、▲8二金△9三玉▲7二金であっさり終わった。

「やっぱりだめだったか」小野がいうと、羽生が「△4一歩▲同飛成△8二銀で難しいですよ」と首をヒネった。

「そんなの、▲7一銀不成で全然ダメだろ」

「いや、次に▲8二銀成は△9三玉で詰みませんよ」

 つまり、15図で△4一歩▲同飛成△8二銀と受け、▲7一銀不成△4七と▲8二銀成△9三玉、というわけ。

 うそだろう、とみんなが寄ってたかって詰ましにかかるが、どうしても詰まない。こういったテクニックでみんなだまされるんだな、と一同感心したのだった。

(以下略)

* * * * *

どの手が羽生マジックなのかを探すのが非常に難しい一局。

12図は、振り飛車党なら振飛車を持ちたい(振り飛車十分に見える)局面。

それが13図ではかなり先手が盛り返している。

△3八馬か△5八馬か迷わせるような指し方など、いろいろと伏線はあるのだろうが、自然な手が続いて、後年の羽生マジックらしい手は現れていないような感じがする。

強いて言えば▲6二銀不成(15図)が羽生マジックの雰囲気のある手なのだろうが、これも2手前に▲7一銀ではなく▲7一角と打っていれば必要のなかった手なので、羽生マジックとは意味合いが異なる。

粉砂糖のように羽生マジック成分が指し手の流れに淡くふりかけられているようなイメージの一局だ。

 

中原誠十段「すぐ指さなくてもいいんでしょ。9時10分まで考えるかもしれませんよ」

近代将棋1985年3月号、読売新聞の山田史生さんの第23期十段戦〔中原誠十段-米長邦雄三冠〕第7局観戦記「米長、十段位をも制す」より。

 1日目夕刻というのに進行は遅い。中原が36手目を考慮中、5時半の封じ手時間がきた。

 立会人の花村九段が「封じ手の時間です」と告げたが、この表現は少し適切ではなく、正確には「5時半になりましたので、次の指し手は封じていただきます」というべきだろうか。繊細な中原十段だけに、すぐこの言葉に反応して「すぐ指さなくてもいいんでしょ。9時10分まで考えるかもしれませんよ」とニヤリ。

 この9時10分という意味がすぐにわかった読者は、ものすごいほどの将棋通といえるのだが、何人ぐらいいらっしゃるものだろうか。

 第16期の十段戦は中原と加藤一二三の対決、昭和53年1月9日に最終第7局が戦われたが、封じ手番となった加藤は、延々3時間12分考え、夜9時10分にやっと封じ手を行ったのであった。このことを指しているのだが、中原にしても、正確な時間をよく覚えているものだ。

 しかしこの言葉は中原の冗談。5時38分には封じて1日目は終了。夜は会食のあと、碁を打ったり、テレビを見たりで過ごす。

(以下略)

* * * * *

第16期十段戦第7局、封じ手までの3時間12分の長考の間、中原誠十六世名人は律儀に席を外すこともなく、正座して封じ手を待ち続けていたという。

加藤一二三九段の格闘技のようなタイトル戦

「中原にしても、正確な時間をよく覚えているものだ」と書かれているが、片方の当事者、なおかつ待っていたほうなので、時間を覚えているのは自然なことのような感じがする。

* * * * *

あまりに高度な冗談はごく僅かの人にしか通じないわけだが、「すぐ指さなくてもいいんでしょ。9時10分まで考えるかもしれませんよ」も同じ十段戦だから(読売新聞の山田さんは少なくとも知っている)言えた冗談なのかもしれない。

 

佐藤康光四段(当時)「少し感染されてきてるかもしれないですね」

将棋マガジン1987年10月号、「若手棋士訪問記 米長邦雄のスーパーアドバイス 佐藤康光の巻」より。

ご近所の方も一緒の写真。撮影は弦巻勝さん。

中外製薬

米長 近所の奥様たちは解散しましたか、ハハハハ。私はやっぱり、奥様方に人気があるのかな(笑)。

父母 今日はよろしくお願いいたします。

米長 いやいや。こちらこそ。せっかくの日曜日にお邪魔してすみませんね。お父さんはお仕事は何をなさってるんですか。

父 製薬会社に勤めてるんです。中外製薬なんですけどね、それで先生には以前、講演に来て頂いたことがあるんですよ。

米長 あっ、そうですか。その時、いらっしゃったですか?

父 ええ、お聞きしました。

米長 それはどうも。私のつたない話を。お宅には昭和50年に『ピシバニール』なる薬で大変お世話になりましてね、あれでわが家も立ち直ったんですよ。ありがとうございました(笑)。あの薬はガンに効くんだけど、私の場合は家に効いた。中外製薬の人にはいくらお礼を言っても足りないぐらいですよ。

父 いやあ、ハハハハ、そうですか。

米長 今、財務内容がものすごく良くなってるでしょう。

父 そうです。おかげさまで『ピシバニール』以来、会社の内容が非常にいいんですよね。

米長 労使関係も非常にうまくいって。

父 ええ(笑)。今は組合も一つにまとまりましてね。

米長 将棋連盟くらい良くなってる(笑)。あっ、それで大阪にいたんだ。

父 そうです。康光が小学1年生の時から。中学2年の時にこちらに来たんですよねえ。だから、7年間位大阪にいたんですね。

米長 最初は大阪の奨励会にいたんだよな(2級の時、東京に)。師匠とか兄弟の話をしてくれ。

佐藤 師匠は田中魁秀です。兄弟は3人、僕が一番上で、あと弟と妹がいます。

米長 弟さんは、将棋は指すの?

佐藤 いえ、やらないですね。

米長 子供の頃、一緒にやりそうなもんだけど。年が離れてるのかな。

佐藤 3つですけど。

母 覚えた時に、この子の方がすぐに強くなったものですから。

米長 お父さんはお指しになるんですか。

父 並べる程度ですね。

米長 ルールを知っていて、ちょっとやるという程度?

父 はい。

米長 で、魁秀さんの所に通ってたのか。

佐藤 はい。小学4年の時から。

米長 その前は?

佐藤 それまでは、アマチュアの先生の所に行ってました。

母 公民館の同好会みたいな所に。

 佐藤四段は田中魁秀八段門下、17歳。前年度、つまり1986年度の最後の奨励会で四段に昇段、今期の順位戦にギリギリで間に合った。昇段の成績は13勝1敗、それも二段から三段に8連勝で上がって、そのまま続けてあげた成績。21勝1敗という恐るべき勢いで二段から四段に一気に駆け登った。住まいは東京都日野市。京王線の高幡不動駅から歩いて20分位。奨励会入会は1982年の秋で、これは羽生、森内らと同期。良きライバルとなっていきそうな三人である。

マジメな高校生

米長 君は塚田先生の若い頃に似てるね。

佐藤 ハア。

米長 塚田泰明じゃないよ。タイメイはカステラみたいな甘い顔してるけど。オヤジさんが文明堂だからな。塚田正夫先生に。言われた事ない?

佐藤 いえ、ないですねえ(笑)。

米長 寄せが鋭いんじゃないか。

佐藤 そんな事もないですけど。

米長 序盤、中盤、終盤、どれが得意?

佐藤 特に得意というのもないですけど。

米長 なにかあるだろう。詰将棋が得意だとか、序盤の研究が好きだとか。

佐藤 詰将棋が好きでよくやります。

米長 そうか。序盤の研究は?

佐藤 研究会とかで指した将棋で、その現れた局面を、帰ってからあれこれ研究するような感じですね。

米長 普段はどんな生活なのかな。朝は何時に起きるの?

佐藤 6時40分頃です。

米長 ずいぶん早いね。

佐藤 学校に行ってますから。

米長 あっ、そうか、高校生か。

佐藤 はい、3年生です。

米長 俺が高校3年の時は……三段だったんだなあ。1年の時に三段になって3年のときも三段だったんだ。次の年に四段になったのか。高校3年で、俺は婚約者がいたね。君は?

佐藤 いやあ(笑)。一応、募集中です。

米長 学校はどこだい。男子校かい?

佐藤 いえ、共学です。国学院高校で、千駄ヶ谷にあるんですけど。

米長 国学院!!国学院っていったら難しいんだろ。将棋指しの頭じゃ、なかなか入れないよ。

佐藤 (笑)。

米長 まあ、そんな事もないか。でも、結構、難しい学校だよね。一生懸命勉強して、国学院に入れたらいいなあ、と思ってる中学生がいっぱいいるんだから。将棋の片手間に入るんだから大変なもんだよね。フフフフ。とにかく、きわめて順調に来てるわけだ。親元にいて、将棋の道場に通って、奨励会に入って、学校にも行って、めでたく四段になって。えーと、四段になったのはいつだい。

佐藤 今年の3月25日です。

米長 じゃあ、もう、わずかながらも給料が出てるわけだ。給料、対局料はどうしてるの?

佐藤 全部、親に預けてます。

米長 ほう。全部預けて、高校生としての小遣いをもらっているわけだ。

佐藤 そうですね。

米長 それは非常にマジメだね。カネが入ったら、パーッとどこかへ飲みに行くとかじゃなくて、高校生らしい生活をしてるわけだ。棋士というよりも。

佐藤 そうですね。

米長 で、普段は家で研究してるわけだ。

佐藤 ええ、それから、研究会とか、将棋会館に行ったりする事も多いですね。

米長 ああ、そうか。学校の帰りに。ちょうどいい所にあったもんだね。もっとも千駄ヶ谷にあるから、そこにしたのか。

佐藤 そうです。

米長 そうだよな。それは利口だね。高校への進学は、自然に行く事になったの。

佐藤 そうですね。奨励会員でしたから。

米長 最近はどうなのかな。高校に行く人と行かない人とは、どっちが多いの?

佐藤 行ってる人の方が多いんじゃないですか。

米長 高校に行かせないのは古い頭のある一門ぐらいなもんか(笑)。

バイオリンから将棋に

米長 バイオリンが趣味だって聞いたんだけど……。

佐藤 ええ、奨励会に入る前まではやってたんですけど、入ってからは全然。今は1年に1回、弾くかどうかですね。

米長 たまに弾くことはあるんだ。

佐藤 妹がやってるんで、それでたまに。

米長 バイオリンは、ご両親がお好きなんですか?

父 いや、妻の方が熱心でして。あのう、鈴木慎一先生という人がいましてね、その人が、環境によると言うんですよ。日本人に生まれれば、自然に日本語を覚える。だから、小さい時から教育すればどんな子供でも伸びる、能力にはそんな差がないと言うんですよね。結局、あとは練習であると。一日何時間練習するかによってその能力が伸びる。そういう教育の仕方なんですよ。だから、皆、小さな頃から、やったんですよね。

米長 それは非常にいい事でしたね。

父 康光が将棋を覚えたのも、それがきっかけだったんです。夏期学校がいつも松本で行われるんですよ。4日間泊まり込みで行くんですけどね。小学2年生の時に、たまたま同じ部屋になった中学生の子がバイオリンより将棋が好きで将棋盤を持って来てたんですね。そこで興味を示したんですよ。それで帰りに松本で将棋盤を買いましてね。列車の中でやったんですね。それから好きになりました、ものすごく。自分で勉強するようになりまして、急激に強くなりましたね。

米長 大体、ルールを覚えた瞬間に”面白い!!”というのと”つまんない”という両極に分かれるんですよね。その時に決まりますよね。プロになるような人は、”これは面白い”と思ったんですよね。だから伸びるわけだよな。

父 そうですね。だから、家庭教育でも、子供が興味を示さなければダメですね、親がいくら一生懸命になっても。これは勉強でも何でも同じですね。

米長 やっぱり、ご両親の熱心さが実を結んだという事になりますね。

東京と大阪

米長 田中魁秀さんはあんまりうるさくないだろ。礼儀とがどうだとか、あれこれ。

佐藤 そうですね。優しいですね。

米長 まあ、大体、君は怒られそうもないよな、そういう点じゃ。

佐藤 あ、でも、教室とか手伝っていた時はたまに怒られました。それで、礼儀とかも少しは身に付いたと思います。

米長 大阪の奨励会から東京の奨励会に来て、何か感じた事はあったかい。

佐藤 全然感じが違うんで驚きました。

米長 大阪の方が、先輩後輩、奨励会と棋士の差というのがハッキリしているという感じがあるね。東京はなんか、みんな一緒という感じになっちゃってるけど。

佐藤 そうですね。

米長 俺も大阪の会館に行くと”ああ、俺はやっぱり将棋の先生だったんだな”という気がするね。奨励会員でも、尊敬のまなざしというか、気を遣ってくれてるような、そんな雰囲気があるのね。東京の場合はあいさつでも、ヘタしたらしないのまでいるしね、するにしても、なんか、アルバイトの青年が社長にちょっとあいさつするような、そんな感じのが多いんだよな。昔はそういう先輩後輩、棋士と奨励会の差というのは大変なもんだったんだよ。俺が内弟子の頃、升田三冠王が、佐瀬七段の家に来た事があったんだ。その時はもう、殿様と家来が話をしているような感じだったからね。また、奨励会でも、6級から見た初段というのも大変な差があるような感じだったんだ。そういうような所が、大阪はまだ少し残っているという感じがあるよね。君は大阪のいい所を持ち続けてるのかな。

佐藤 少し感染されてきてるかもしれないですね。

米長 先崎学という感じになってきたのか(笑)。

佐藤 そうですね(笑)。

(中略)

米長 四段になってから何局指したの?

佐藤 7局です(6勝1敗)。

米長 まだ、なったばかりなんだよな。これからだ。お父さんは中外製薬だし、お母さんは若々しくて美人だし、言う事ないよね。環境はいいし、マジメだし、頑張るだけなわけだ。順調にこのまま伸びたらいいんだよね。普通にやって伸びるから順調ってわけでね。普通の人はこうは行かないんだから。まあ、いずれは将棋界を背負って立つわけだからな。しっかりやってもらわないと。その時は俺の面倒をみてくれよ(笑)。

* * * * *

近所の人たちも一緒に写真に写っているのが、とてもいい感じ。

* * * * *

佐藤康光九段が育った家庭環境がとても素晴らしかったことがわかる。

このような、お父さんが大手企業のビジネスマンで、家庭教育の方針が明確で、普通なら大学進学→就職の道を進むケースが多くなると思うのだが、そうした中から棋士と歌舞伎役者(弟の市川段一郎さん)が生まれたというのは、ご両親が本当に子供が興味を持った分野を大事にしていたということだろう。

やはり理想的な家庭環境だ。

* * * * *

「鈴木慎一先生という人がいましてね、その人が、環境によると言うんですよ。日本人に生まれれば、自然に日本語を覚える。だから、小さい時から教育すればどんな子供でも伸びる、能力にはそんな差がないと言うんですよ」

鈴木慎一さん(1898年-1998年)はヴァイオリニストであり、スズキ・メソードの創始者。

「やり抜く力を育てる」 ~スズキ・メソードと日本将棋連盟、トップ対談(毎日メディアカフェ)

* * * * *

佐藤 少し感染されてきてるかもしれないですね。
米長 先崎学という感じになってきたのか(笑)。
佐藤 そうですね(笑)。

この辺の機微が最高に面白い。

花村元司九段の涙が出るような激励

近代将棋1986年3月号、武者野勝巳五段(当時)の「駒と青春 師匠となって」より。

 編集部より突然「来月号の”駒と青春”を書いてください」と依頼があった。7年ぶりのことなので、「なぜ、この時期に」と戸惑っていたら、続いて「お弟子さんが奨励会に入ったでしょう。題は”師匠となって”とでもしてはいかがですか」とのこと。

 なるほど、子を持って知る親のなんとやら。師匠となってから、若干私のなかの奨励会観が変わっていたので、それも面白いかなあと筆を執ることにした。私事と楽屋裏の話ばかりになりそうで恐縮だが、しばらくお付き合い頂ければ幸いである。

 59年の9月、ある日曜日の朝にチャイムが鳴った。「どちらさんですか?」と問うと「斉藤です」とのこと。奨励会の斉藤君かとドア開けると意外全く見知らぬ少年で、聞けば「埼玉県上尾市から来ました斉藤、13歳です。弟子にして頂きたくやってきましたと言う。何を好き好んで四段の弟子にと思ったが、師匠の花村九段を紹介すれば良いやと考え、平手を2局指してみた。

 アマチュアの三段強というところだが、意気が良く将棋が素直で、加えて「将棋を覚えて1年半位」という上達の速さが気に入って、「11月の奨励会入会試験を受けられるようにしてあげるから、今度は両親と一緒に来なさい」と答えた。

(中略)

 当時花村先生は3人の新弟子を毎土曜日に稽古つけてあげていた。その3人が惜しいところで奨励会入試に2年続けて失敗していたので、「3人と同じように面倒見てあげるけど、本人の希望どおり君が師匠ということになってあげなさい」と言われた。

 そこで両親には、花村先生がいつもするように、プロの卵達の競争がとても厳しいこと、家族の理解と協力がなかったら正しい修行ができないこと、棋士になっても四段クラスでは中卒女子以下の給料であること、などを私の口から話し、「奨励会6級入会にはアマ五段の実力が必要ですから、今年の試験はまず受からないと思います」と付け加えた。

(中略)

 その年の奨励会入試は2勝3敗で一次試験にて失格。これはある程度予想されたことで、むしろ2勝は望外だった。

 この頃に奨励会の予備軍的存在である研修会ができたので入会し、毎土曜日は花村先生の稽古、第二第四日曜は研修会と、斉藤君の本格的な将棋の修行が始まった。平日は学校から帰ると地元の将棋道場に直行なので、こうなると学業の成績も急降下、両親の不安が伝わってきてこちらも辛い。

 それでも将棋を勝てば本人は救われるのだが、急に豪の者の集団に入ったので、ブラックホールのように多少の棋力アップは吸収されて白星へと結びつかないのだ。

 私は新任の理事職が忙しく、研修会での棋譜を並べて「確実に実力アップはしている。後は自信を持って盤に向かうこと」などと声援を送るだけだった。

(中略)

 そんな訳で次の奨励会入試、惜しくも合格できなかった。花村先生も実力アップより自信喪失のマイナスの方が大きいといつも心に掛けて下さり、道場の新年会の席上、大勢のお客さんに「奨励会を目指している斉藤君です。この間は惜しくも不合格だったが、今年の試験は絶対受かる。花村が百万円賭けてもよろしい」と紹介してくれたそうだ。この頃から研修会での成績も急速に上向き、CⅡ級からCⅠ級、BⅡ級、BⅠ級と驚くほど順調に昇級を続けた。やはり力が溜まっていたのだろう。

 途中花村先生の突然の逝去でしばらく精神的に乱れ、AⅡ昇級即ち奨励会へ編入の一局を5番も負けるという珍記録を作ってしまったが、研修会幹事だった田丸七段から「奨励会試験は絶対受かるよ。こういうタイプの方が上に行って勝負強くなるもんさ」と私が励まされたりもした。

(中略)

 研修会BⅠ級なので今回の奨励会試験は一次試験免除。二次試験、これは現役奨励会員と3局指すのである。安全圏は2勝1敗で、1勝では面接と筆記の成績によって落ちる可能性がある。

 当日見回すといるいる。勝浦九段、石田八段、佐瀬八段、剱持七段ら高段棋士が愛弟子の戦いぶりやいかにと心配顔で記者室に待機している。

 勝浦九段の弟子は北海道の出身で、合格したら早速アパート探しにとりかかるそうだし、佐瀬八段は多くを内弟子として自宅で修行させた苦労を語る。剱持七段は弟子の住まいとして新宿にマンションを購入し、そこで教室を開講している話だ。

 そんな間に斉藤君は1勝1敗、そっと3局目をのぞいてみるともう1分将棋、相手玉は必至がかかっているが、自玉もかなり危険。豊富な持ち駒の相手が数十分の大長考中で、私は席に戻って考えても何が何だかさっぱり分からない。詰まないとも思えるのだが、手が広いだけに好手順がありそうでもある。結局は勝ち切るのだが、あんなにフルエたのは生まれて初めてで、自分の入会試験を見に来た花村先生の気持ちが今にして分かったものである。

(中略)

 将棋界では「師匠は弟子に将棋を教えない」ものとされてきた。技は自分で得るものとの判断からだが、同時に内弟子全盛の頃には兄弟子や訪問棋士が代わりに稽古をつけてあげたからだろう。その意味で、内弟子制度のなくなった今では師弟の関係は様々に変化している。

 昨年より花村先生の遺児となった窪田5級、深浦5級を交えて都内の道場にて研究会を催している。先生の稽古会を場所を変えて継続したもので、せめてもの恩返しのつもりなのである。

 師匠1年生の現在は何をしたら良いのか分からず、「若いうちは居飛車でなくちゃイカン」「穴熊などもっての外」という先輩の声に揺れたり、「盤上は人生の縮図、全てを経験して清濁併せ飲む器量に育てなくちゃイカン」という別の先輩の声に揺れたりする毎日だ。

(以下略)

* * * * *

「奨励会を目指している斉藤君です。この間は惜しくも不合格だったが、今年の試験は絶対受かる。花村が百万円賭けてもよろしい」

人生の酸いも甘いも噛み分けた花村元司九段ならではの、涙が出るような激励。

若い頃は賭け将棋などで修羅場をくぐってきた花村九段が賭ける、というのは他の人が賭けるよりも非常に大きな説得力を持つ。

これほど勇気づけられる激励はなかなかないと思う。

* * * * *

「当日見回すといるいる。勝浦九段、石田八段、佐瀬八段、剱持七段ら高段棋士が愛弟子の戦いぶりやいかにと心配顔で記者室に待機している」

この時の奨励会試験では、勝浦修九段門下で野月浩貴少年、金沢孝史少年、佐瀬勇次名誉九段門下で木村一基少年、五十嵐豊一九段門下で屋敷伸之少年などが合格している。

* * * * *

「昨年より花村先生の遺児となった窪田5級、深浦5級を交えて都内の道場にて研究会を催している」

花村九段が亡くなった時に花村門下だった奨励会員は窪田義行5級と深浦康市5級だけだった。

武者野勝巳五段(当時)が後を引き継ぐ形となっている。

花村一門物語