近代将棋1985年2月号、能智映さんの「呑んで書く 書いて呑む」より。
「関西将棋会館」―昔の北畠時代から通っているだけに、いっぱいなつかしい顔がある。いろいろ会いたい。
対局室は5,4階だが、日頃お世話になっている3階の事務局の方々にも「ごあいさつ……」とかいいながら、新聞記者というのは”耳”が先走る。
「素晴らしい事務能力を発揮され、関西の機関庫になっている」と聞いていた相馬清司、土井春左右両五段の健康そうな顔色を見て、まず安心。わたしより2つ3つ先輩、大変お世話になった方々。
(中略)
相馬さんと雑談して「土井さんは?」と聞いたら「いま2階の道場にいます」と。ずいぶんお世話になった方、なつかしさと取材欲にかられて訪ねてみたら、やっぱりおもしろい話が出てきた。
「ぼくも第1期(王位戦)の記録をとりましたよ。そう、それで大山名人の四冠王が決まったんですから、あれは第5局。大阪の羽衣荘です。それがおかしな終局になりましてねえ」
聞くと、なんだかウソのようにおもしろい。気のいい土井さんは「観戦記者は関本さんでした。たしかめていただければ―」というので帰京してすぐ関本さんに電話した。
「急には思い出せないが、なんだか、そんな気がするねえ。そうそう、それは大山さんにたしかめればいいよ」と大長老らしい返事だったが、まさか大名人にこんなことでポンポン電話するわけにもいかない。で、わたしの責任ということにして「間違ったら申し訳ない」と土井さんに聞いた話を書いてしまう。
昭和35年のこと、王位戦は”夏の陣”だから5局目になると9月にかかる。それでも、対局室に氷柱が立てられ、その上におしぼりなどが乗せられていたらしい。対峙する大山-塚田。王手がかかった一戦だけに、相当に迫力があったに違いない。
対局は終盤に入った。山本武雄八段著の「将棋百年」(時事通信社)に棋譜が載せられてはいるが、このことに関しては何も書かれてはいない。
ほんとうに最後の最後になったとき、突如電燈が消えてしまったのだという。当時ならよくあったことだ。「すると、すぐに塚田先生が投了してしまわれたんです」―ほんのしばらくだけ、太いローソクを立てて対局を続けていたらしいが。
(以下略)
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豊島将之二冠が関西将棋会館道場に初めて行ったのは、小学校入学前後のこと。お母さんと一緒だった。
この当時、嘱託で道場に勤務していたのが土井春左右指導棋士七段。
土井七段は豊島少年の素質の高さに惚れ、マンツーマン指導をやるようになった。豊島少年の棋力はどんどん上がり、奨励会に入会する小学校3年生の時にはアマ六段までなっていた。
豊島二冠が桐山清澄九段に弟子入りしたのは、9歳のとき。
土井七段の紹介だった。
豊島二冠は、昨年棋聖位を獲得した直後のインタビューで、「この会見が終わったら、師匠と、子供のころ将棋を教わった土井春左右先生、母親に連絡したいと思います」と語っている。
→【第89期ヒューリック杯棋聖戦】豊島将之新棋聖会見(1)「長かった。諦めずに良かったなと思います」(産経新聞)
豊島二冠にとって、土井七段が非常に大きな存在であることがわかる。
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昭和30年代は、それほど長い時間ではないものの、停電することが多かった。
そういった意味で当時は蝋燭あるいは懐中電灯は必需品だったわけだが、昭和40年代になると、そのような停電はなくなった。
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とはいえ、1993年の王位戦七番勝負〔郷田真隆王位-羽生善治竜王〕第2局では、昼間ではあったけれども、停電が起こっている。