近代将棋1985年1月号、今福栄さんのアマ・プロ勝ち抜き戦〔小林宏四段-小林庸俊都名人〕観戦記「若武者の一騎討ち、アマが制す」より。
さて、この企画の魅力はもちろん、プロ若手棋士とアマ強豪の平手戦の白熱にあるのだが、もうひとつ刺激的な仕掛けがある。それは10人勝ち抜き者に、賞金50万円が贈られるということだ。
プロ、アマ問わず、励みになることは必定で、最近のアマチュアスポーツ界は、冠大会の是非や、大金をつかむアマ選手の出現など、アマチュアリズムの根源を問い直す論議がかまびすしいが、将棋界も、ひとつの大きな流れの中に、さおさしていこうというのだろう。コトの可否、善悪はここで論議するつもりはない。
ただ、将棋が勝負を賭けるゲームで、それもかなり緊迫した格闘技の性格を持つ以上、刺激的な仕掛けが、より蠱惑的な内実に繋がっていくということは避けられないことだろう。
前置きはともかく、この企画の第1戦は、奇しくも、アマプロ同姓の対決となった。
小林宏新四段、21歳。
昭和53年10月、6級で真部一男七段に入門。16歳になる直前に6級で入会というのだから、かなり遅いプロ志望といえるだろう。6級から5年9ヵ月で四段に抜ける、これは、とびぬけて早いということもないが、まず順調な出世である。
身長178センチ、登山が趣味ということで、細身ながらしなやかな肉体のハンサムボーイだ。
尊敬する棋士は米長邦雄三冠王。
「尊敬する棋士は米長邦雄三冠王。スケールの大きなところが好きで、あこがれます。ただこれは将棋のことだけで、米長先生のなにからなにまで好き、ということではありません」
明快である。もう少し聞こうと思ったが、それはやめた。
新四段になって公式戦の成績は3勝2敗。可もなし不可もなしというところだが、本人はやや不満であろうか。さしあたっての目標は五段。
「四段でも何年か指せば五段になれるようですが」
と少し意地悪く問うと、
「そういう五段ではありません」
ときっぱり。口調にちょっと攻撃的なところがあって愉快である。性分がサッパリしているのだろう。
酒も結構いける。
「真部先生に連れられて」
飲みにも行くようだが、彼と二人だと、さすがに真部七段だけもてる、というわけにもいかないだろう。
父君は大学教授。
今は親元から独立して一人暮らし。
「まだ仕送りしてもらっているのか」
と立ち入ったことを聞くと、
「仕送りを受けるくらいなら一人住まいはしません」
といくぶん、ムッとしたような顔で答えた。
ライバルは富岡英作三段。
「彼と指すと燃える」
私生活ではたいへん仲がいいらしい。
(中略)
小林都名人、ともかく寡黙である。ほとんど口を開かない。かといって狷介であるという風ではない。どこか人なつっこいところがある。酒は飲まないが、酒席にもつきあってくれる。友人の一人はこういった。
「じっと黙っていて、モソモソッと、ときおり発する言葉が凄い。深傷を負って、2、3日足腰の立たなくなった奴が何人もいる。おそろしい話だ。がおもしろい男です」
私は、一目で好青年だと思った。
(中略)
勝った小林都名人、
「小林プロは『将棋世界』の田尻隆司アマ名人との一戦(昭和59年12月号)で、きびしい自己批判をされておられました。どんな人かなと思っていたのですが、さわやかな人柄で、指せてよかったと思います。これからも、プロに胸を借りる意味で、一戦一戦たたかいます」
と言葉少なにしゃべってくれたが、よく聞いてみると、まだまだ勝つ気でいることがわかる。いい気合いだ。
小林プロは、少しつらそうだったけれど、明るく酒を飲んで、明るくふるまっていた。これからの勝負の人生で、何かをつかんだ、そんな風にも見てとれた。
(中略)
尚、記録は中田功二段。感想戦で、急所にピシピシと発言。礼儀をわきまえて臆するところなく、気持ちがよかった。
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小林宏四段(当時)が清々しい。
師匠の故・真部一男九段は「率直発言派の小林」ということで可愛がっていた。
非常に明快かつ明解だ。
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「尊敬する棋士は米長邦雄三冠王。スケールの大きなところが好きで、あこがれます。ただこれは将棋のことだけで、米長先生のなにからなにまで好き、ということではありません」
尊敬するけれども何から何まで好きということではない、と言うと、歴史上の人物では織田信長が思い浮かぶ。
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一方の小林庸俊都名人(当時)に対する「じっと黙っていて、モソモソッと、ときおり発する言葉が凄い。深傷を負って、2、3日足腰の立たなくなった奴が何人もいる。おそろしい話だ。がおもしろい男です」という友人の評。
どのような事例があったのか、結構気になる。
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最後に出てくる中田功二段(当時)がいい感じだ。
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→郷田真隆五段(当時)「小林宏五段は、私の好きな先輩のひとりです」